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近辺の観光案内

「肉の森屋」は、思案橋電停から3分程度のところにあります。
思案橋は、繁華街、夜の歓楽街、枇杷で知られる茂木へ行く別れ道とも言えます。
この思案橋付近の観光案内をいたします。

思案橋



♪恋いは捨てたのさ 今のこの俺 じっと孤独をかみしめ お前を好きだと 言ってみた ・・・・・・♪


思案橋を題材にした”思案橋ブルース”の一節です。
恋に破れたわが身を、夜の歓楽街で晴らそうとでもいうのでしょう。
ここ思案橋は昔の遊郭、現在は夜の歓楽街への入り口です。

日本が鎖国となり、長崎は唐蘭易で賑わいましたが、この橋も丸山をひかえ地元はもちろん諸国往来の人達でおおいに行き来があり、土橋から木の橋へ、木の橋から屋根のついた木廊橋へ変わり、また、もとの木橋になったりと変転を重ねましたといわれています。
思案橋という名はいつからついたのかわかっていません。

木橋は火事で明治8年(1875)に石橋になり、大正3年(1914)にセメント・コンクリート被装の鉄橋に改まりました。もちろんこの時は思案橋も既に約320有余年の歴史をもつ名橋として天下に知られてはいましたが、それでも今日ほどではありませんでした。
思案橋といえば長崎の橋だけと思われがちですが、江戸は日本橋小網町の1丁目と2丁目にあった橋の名が思案橋でこれが元祖といわれます。元和の頃、元吉原の遊郭と堺町の芝居小屋がどちらもこの辺にあったので、往来する者が大いに「行こか戻ろか」と思案したというので思案橋という名がついたといわれてます。

丸山遊郭

丸山の入り口にあるカステラで有名な福砂屋本店 長崎を代表する料亭・花月 花月と並ぶ遊郭・中の茶屋

その昔は、思案橋を渡り、本石灰町(もとしっくいまち)を過ぎるとそこは丸山遊郭街です。
きっと、坂本竜馬、勝海舟など幕末を代表する志士たちもどうしようか思案したに違いありません。
現在は、夜の歓楽街になっていますが丸山は、1642(寛永19)年に、市中に散在していた遊女屋を幕命により、一か所に集めたのが始まりといわれています。
当時、丸山は江戸の吉原、京の島原と並ぶ、日本三大花街といわれる賑わいでした。
今年は、なかにし礼の著書「長崎ぶらぶら節」を題材にした、吉永小百合主演の「長崎ぶらぶら節」が9月に封切りになりますが、そのおもな舞台が遊郭・花月と中の茶屋です。
中の茶屋は、丸山の遊女屋越後屋が設けた茶屋で、唐人には千歳窩(せんざいわ)と呼ばれていました。この名にに因んで、別名を千代の宿ともいわれ、内外の文人墨客が好んで遊び親しんでいました。
長崎奉行の市中巡検の際には、花月とともに休憩所にあてられることもありました。
幕末期にできた俚謡(りよう)「長崎ぶらぶら節」には、「遊びに行くなら花月か中の茶屋」と読み込まれています。
「花月」は現在も料亭として現存し、長崎名物のしっぽく料理を楽しむことが出来ます。
また、この花月には坂本竜馬が悪ふざけをし残した刀傷のある部屋があります。


 

花月・春雨の間 中の茶屋の庭園
愛八こと松尾サダのお墓


中の茶屋の庭は、江戸時代中期に築かれた庭園としては、市内の寺院のものを除けば、数少ない遺跡の一つです。
建物は、1971(昭和46)年、火災で焼失したので、1976年2月12日に、なるべく旧態に近く新築し復元竣工されました。

-愛八(あいはち)について−
ところで「長崎ぶらぶら節」に出てくる愛八は実在の人物で、明治7年に長崎市郊外の網場というところに生まれました。10代の半ばで芸者になっています。18才のときは派手な顔立ちと芸に熱心なこともあり売れっ子になりました。長唄、清元、常磐津、端唄と幅広く秀でた芸と美声、気っ風のの良さで人気があったようです。昭和5年、声楽家の佐藤美子と出会い佐藤の紹介でビクターから「長崎ぶらぶら節」を吹き込みました。1933(昭和8)年12月30日没。享年60歳。戒名は「愛誉八池貞水大姉」。
「長崎ぶらぶら節」をお聴きになりたい方は→

長崎ぶらぶら節のこと



2000年1月に直木賞を受賞した、なかにし礼著書「長崎ぶらぶら節」はこんな一節ではじまっている。

『日見峠は行けどもつきない山道だった。』

この日見峠は、長崎から行くと曲がりくねった、急行勾配な坂道で、だらだらと続き、旅人泣かせの道である。箱根駅伝のあの坂道を想像していただければ良いかと思う。(あそこまで急勾配ではないが)
しかし、江戸等からきた人たちには、つらい長旅の最後の峠で、茶屋で一服して、もう下り坂で一気に長崎突入だ、というような安息の場でもある。
そういえば、小さいころ口ずさんだ歌にこんなのがある。

街で饅頭こうて 日見でひもろて 矢上で焼いて 古賀でこんがらかして 喜々津で切って 久山でうちくうた

意味は判ると思うが、解説すると「長崎の街で饅頭を買って、日見峠までたどり着いたらおなかが空き、日見から6、7Kmくらい行ったところの矢上というところで、買った饅頭を焼き、
またその先の古賀(古賀人形が有名)とういところまで行くと、ついにその饅頭を焦がしてしまい、そのまた先の久山(諫早まで10Kmたらずのところ)で食べてしまった」というような意味である。
話は長くなったが、主人公の愛八(松尾サダ)は、この日見と矢上のちょうど中間あたりを右に折れ、その先の網場というところに生まれた。現在は長崎市に属し、長崎総合科学大学がある。
その後、60年間生き抜くわけであるが、郷土史研究家である古賀十二郎(映画では渡哲也)と知り合い長崎の埋もれた歌を一緒に捜し歩きぶらぶら節を発見する模様を小説にしたのが「長崎ぶらぶら節」である。
古賀十二郎は五島町(長崎駅のすぐそば)の大店「万屋」が生家で、この「万屋」は代々筑前黒田藩長崎屋敷の御用達であった。彼は明治28年n長崎市立商業学校を主席で卒業し、東京外国語学校(現・東京外語大学)に学んだ。同期生には永井荷風、1年先輩には有島生男がいた。
愛八の葬式については、当時の長崎日々新聞(現在の長崎新聞)に掲載された。
普通であれば、花街の女性が亡くなっても新聞記事になることはないが、埋もれていた俚謡(りよう:地方で歌われる唄)「長崎ぶらぶら節」を全国レベルに引き上げた功績が、新聞記事になり、今回の著書になったのではないだろうか?

映画「長崎ぶらぶら節」は9月9日から公開!

東映配給、映画「長崎ぶらぶら節」(監督:深作幸男)が堂々完成。9月5日、東京銀座・丸の内東映で完成披露試写会が開かれました。公開は、9月9日、長崎を皮切りに、15日から全国で公開されます。8月初旬チケットショップに行ったときに売っていたので、ヒット作品になるかは疑問。ちなみに、現在ヒット中の「ホワイトアウト」は売ってませんでした。


崇福寺

思案橋から「肉の森屋」を過ぎ、左に折れると(約5分)と呼ばれる崇福寺(そうふくじ)がある。
長崎には興福寺・崇福寺・福済寺のいわゆる三福寺と呼ばれる寺があります。これらは主に、在留唐人や帰化唐人等の手で建立されました。興福寺(俗称「赤寺」又は「南京寺」)は、市内寺町の中央にあり、元和6年(1620)に渡来した真円によって開基されました。当時、日本に来る中国人の中にはキリスト教徒がいたため、長崎奉行は唐人の宗教についても厳重に調査をしていましたが、在留唐人等は自ら進んでその証明を行い、かつ、海上の安全祈願と故人の冥福を祈るため寺を建てようということになりました。第2代住職の黙子如定は眼鏡橋を架設したことで有名であり、第3代の超は近世漢画の祖として有名です。また、超然は当時中国でも高僧の評判が高かった隠元を招くことに成功し、全国から多くの僧がここへ教えを受けに来ました。


崇福寺

この崇福寺の前の道を歩いて行くと、寺町の通りにぶつかる。
ここを左に数分歩くと在留唐人、帰化唐人などの手によって建てられた三福寺の一つ興福寺がある。
三福寺とは、興福寺のほか崇福寺・福済寺。興福寺の境内には国指定重要文化財の唐人屋敷住宅門や三江会所の門(江南・浙江・江西)、日本三聖堂の一つといわれた長崎聖堂の大成殿と杏檀門(大学門)がある。

興福寺

この興福寺から電車が走っている方向に歩いて行くと、日本最古の石橋「眼鏡橋」(1634年)がある。
興福寺の住職だった黙子如定の技術指導で作られたものです。
この石橋は、とても堅ろうで、この何百年もの間何度も水害に遭遇したが一度も壊れることなく、静に中島川に鎮座している。
この石橋がかかる中島川沿いにはアンティークショップが結構あり大いに楽しめます。

眼鏡橋

この「眼鏡橋」に一番近い停留所は「賑橋」(にぎわいばし)です。



もっと他の観光地を知りたい方は「異国情緒ただよう街 Nagasaki」のホームページへ!

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