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長崎ぶらぶら節探索



「長崎ぶらぶら節」の 舞台となった花街・丸山界隈を探索してみよう。約1時間くらいのコースである。
思案橋から行こうか戻ろうか思案したのち、丸山のほうへ。1、2分歩くと三叉路にぶつかる。
左手に折れると、すぐに福砂屋の本店が目にはいる。そのすぐ先の公園が「丸山公園」。
その奥まったところに史跡料亭「花月」がある。いつも、黒光りの大きな車が店の前で待機している。商売のための接客に使っているのだろうか?この花月は、丸山随一の妓楼引田屋(創業寛永19年 1642年)の庭園の中にあった亭の名前である。明治初年に大火に遭い、家屋の一部を焼失、名園花月の名を惜しんで旧引田屋遺構の中に再建された。
花月を左に折れて、1分ほど歩くと長崎検番がある。この検番は昔の長崎東検番で、町の中の検番(これを俗称町検と呼ぶ)に対して山検と呼ばれていた。
その脇を登って行くと愛八さんも通ったと思われる「梅園身代わり天満宮」が鎮座する。この身代わり天満宮は元禄13年(1700年)に創建されたもので、丸山町乙名、安田次右衛門が二重門付近で襲われ、左脇腹を槍で刺され倒れたが、どこにも傷が無く自邸の祠の天神像が左脇腹から血を流して倒れていたということから身代わり身代わり天満宮と呼ばれている。
丸山の遊女たちも、身代を「みだい」と読み、自分の生活に苦労が無いようにと参拝していたらしい。
そのまたちょっと上が「中の茶屋」である。この「中の茶屋」は寄合町(花月があるあたり)の妓楼「中の筑後屋」の茶屋で「千代の宿」とも呼ばれていた。
「中の茶屋」をあとに、中小島公園公園を過ぎ、どんどんのぼって行くと鶴鳴長崎女子高等学校が右側に現れ、その道をちょっと過ぎると、愛八さんのお墓がある。
その前の道をしばらく下って行くとぶらぶら節とは関係はないが、左手上に高島秋帆の旧宅がある。
この高島秋帆とは長崎町年寄(兼鉄砲方)の11代目で、天保8年(1837年)に町年寄を継ぎ、長崎会所の貿易を行なった人である。また、講武所砲術師範役、高島流砲術の創始者でもありわが国の兵制改革を幕府に上申したことでも知られ、東京都板橋区のの高島平という地名は幕府にこの上申が認められ天保12年(1841年)、幕命で門弟100名あまりを率い、大砲4門、小銃50挺で日本最初の様式砲術演習を行なったところから命名されている。
道をどんどん下りて行くと正覚寺下に出るが、この道は「茂木街道」と呼ばれ、長崎から茂木に至る街道。茂木から島原、天草へと船出したところ。天草が幕府領となると天草を結ぶ茂木の役割は重要なものとなり、「茂木口」は長崎六ヵ所口の一つであった。


わたしは愛八です。丸山界隈をご案内します。

「長崎ぶらぶら節探索」丸山界隈案内図

愛八さんの墓

中の茶屋

梅園身代わり天満宮

崇福寺

花月

検番

梅園神社入り口

カステラの福砂屋本店


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