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2001/09/24

フリーメイソンのシンボリズム

 


 日本に30近くあるフリーメイソンのロッジを統轄しているのは、東京にあるグランド・ロッジである。その東京ロッジを訪れてみると、ロッジの前にモニュメントが立てられ、フリーメイソンのトレードマークである直角定規とコンパスを重ねたシンボルが描かれていることがわかる。奇妙なことに直角定規とコンパスの中心には『G』という一文字が刻まれている。ロッジの内部に入ると、天井にこの『G』が書かれている場合が多い。さて、この『G』はいったい何を意味しているのか?フリーメイソン内部の講義では、幾何学(Geometry)、栄光(Glory)、あるいは神(God)の略号と説明されるという。別にどれが正しいというわけではなく、そうした多様な意味が含まれているだろう。

 しかしもっとも重要な含意はおそらく彼らの崇める絶対者の表象であろう。メイソンは内部の集会や儀式において必ず『至高存在 (Supreme Being)』なる抽象的概念に対して尊崇の念を表明する。その際、至高存在は『G』という一文字で表される。それでは『G』は“God”なのかといえば、おそらく当初の意味においてはそうではなかっただろう。日本でゴッドといえば、それは純粋に“神”という意味であり、特定の宗教の神に限定されることのない抽象的な絶対者の概念を指す。しかし、英語圏でGodといえばそれはほぼキリスト教の唯一神を意味する言葉だからだ(the godとGodは全く異なることに注意)。フリーメイソンにはユダヤ教徒もいれば、ヒンドゥー教徒、仏教徒もいる。『G』をGodと限定してしまうのは軽薄というしかない。

 元来、『G』はGodではなかった。GodではなくGreat Architect of the Universe、すなわち『宇宙の偉大なる建築者』の頭文字だったのだ(略してG.A.O.T.U.)。メイソンの教理では、宇宙を創造した神こそは最も偉大なる建築者であり、フリーメイソンの最高階位にあたる。『フリーメイソンの基礎法』第19条には次の如くある。『宇宙の偉大なる建築者』としての『神』の存在を信じることは重要である。この崇高な神の支配を否定するものは、入社できない。無神論者が会員となった例はこれまでない。『徒弟』への入社儀礼において、これは、第一前提となる。これを聞いて、フリーメイソンは独自の神を信仰する宗教団体ではないのかと思われる方もいるかもしれない。しかし、『宇宙の偉大なる建築者』は有限に定義された存在でも、特定の宗教・宗派に固有の存在でもない。

 それは体面する者の個別的信仰により、ヤハウェにもアッラーにも、あるいはヴィシュヌや弥勒にもなれる――いわば全ての宗教にとっての最大公約数的な『神』を表している。曖昧で漠然とした存在を神と崇めるメイソンの姿勢には、自分と異なる信仰を持つ人々の立場を互いに認め合おうというエキュメニズム(宗教的寛容と統合)の精神が働いている。フリーメイソンは宗派・分派に分裂して争いあう17世紀宗教界への反発として、“すべての人間が同意できる”新しい宗教を目指したからだ。宗教に疎く、無神論者が大部分を占める日本人にとって、こうした抽象的な神概念は別段不自然な印象を受けないかもしれない。しかし、神といえば自分たちの信仰する神以外にはあり得ないとする厳格な宗教者にとって、このような概念は到底理解し難いものであり、異端視されることもしばしばある。

 カトリック教会も例外ではなく、クレメンス十二世以来の公式見解としてヴァチカンは現在でもカトリック教徒がフリーメイソンへ入会することを否定し、メイソンの志願者を破門に処すことも珍しくない(にもかかわらずカトリック系フリーメイソンは非常に多いという)。フリーメイソンは『G』の他にもG.A.O.T.U.をその特有のシンボリズムにより多様なアレゴリー(寓意)で包み込み表現する。そのもう一つの例が『万物を見通す目』である。それは一般的に光を放射する正三角形から覗き込む左目として描かれ、その名の通り、宇宙の普遍の中心としての神の目を意味する。三角形はその形の与える印象により、古代の多くの国々で神の象徴とされてきた。例えば、キリスト教では正三角形は父と子と聖霊の三位一体を表象するものとして重視されたし、古代ユダヤでは正三角形の中心は神聖なる神の名(テトラグラマトン=YHWH)そのものであった。

 ヒンドゥー教においては、創造、維持、破壊を司る三神一体の神(梵天、ヴィシュヌ、シヴァ)を同心的な三重の三角形として象徴した。その中心には三字の神聖なる名“AUM”の文字がある。古代エジプト人の場合は正三角形ではなく、直角三角形を宇宙の自然の象徴とみなした。彼らによれば底辺はオシリス或いは男性原理を表し、垂直の線はイシス或いは女性原理、斜辺はホルスあるいは両原理の生産物を表していた。フリーメイソンにとっての神はG.A.O.T.U.、『万物を見通す目』における独眼の主もG.A.O.T.U.以外には考えられない。ところで、アメリカ合衆国の国璽にこの『万物を見通す目』が採用されていると言ったら驚かれるだろうか。国璽とは国家を表す印章であり、大統領の署名した条約批准書、官僚や大使の任命書などの公式文書に使用される。

 合衆国の国璽は1ドル紙幣の裏側に印刷されており、誰にでも容易に知ることができる。下図を見てほしい。十三段から構成される未完成のピラミッドの冠石に当たるところには『万物を見通す目』が描かれている。その特異な図柄からときに『ピラミッド・アイ』とも呼ばれる。『万物を見通す目』と『ピラミッド・アイ』の重要な相違点は13段のピラミッドという特別な象徴性が付加されていることだろう。ピラミッドは石を切り出して造る壮大かつ形状的にも優れて美しい建造物である。巨石建造物のドンといっても過言ではない。元来、石工の職人組合であったメイソンにとって、ピラミッドこそ人類の為しえた最大の奇跡であり、彼らの理想とする完全な建造物だったはずだ。それはまた、象徴的な意味においてフリーメイソンが生涯をかけて築き上げなければならない霊的な神殿、すなわち完成された自己を意味した。

1ドル札に印刷された合衆国国璽(裏) 生命の樹の象徴図形

 ではなぜピラミッドは未完成なのか?この謎を解く鍵は、フリーメイソンに多大な影響を与えたカバラの神秘哲学と象徴図形の中にある。カバラの奥義を凝縮した生命の樹と呼ばれる寓意図において、神々の住む世界あるいはカバリストが霊的覚醒により参入できる至高の精神領域は、三つのセフィロト“ケテル”“コクマー”“ビナー”から構成される上向き三角形の空間として象徴されている。この三角形は『至高世界』と呼ばれ、フリーメイソンのシンボル『万物を見通す目』と対応している。カバラにおいて、至高世界は外部から隔離されているが、決して独立して存在するわけではない。その下部には至高世界に到達するために経なければならない険しい階梯、霊的進化の指標がある。即ち、最下部のセフィラである“マルクト”から“ケセド”へとジグザグに延びていく上昇の道だ。その道程は13の段階、即ち七つのセフィロトと六つのパスにより表現される。

 ここで今一度思い出してほしい。ピラミッド・アイには『万物を見通す目』の下部に13段のピラミッドが描かれていた。『万物を見通す目』が『至高世界』ならば、13段のピラミッドは至高世界へと至る13の階梯に他ならない。その意味で、冠石にあたる三角形がピラミッドの頂上に接地しておらず、空中に浮かんでいるのは非常に暗示的である。生命の樹のある図形では、『中高世界』と『至高世界』の間が、パスではなく神の言葉(剣)によって繋げられている。地上から切り出した石を積み上げただけで、神に達することができないのと同様、人間の努力と修練だけでは決して至高世界に参入することはできない。それは神の意思のみが全てを決するのである。すべての人間は自らの力のみで完全なる人間(ソロモン神殿、ピラミッド)となることはできないし、自らの意思のみで天に近づくことを欲すれば、やがてバベルの塔のように崩れ去ることになる。

 作りかけのピラミッドは未完成なのではなく、それで完成しているのだ。ところで、アメリカ合衆国の国璽の表側もフリーメイソンの象徴主義が反映している。図柄を見てみると、アメリカの国鳥である白頭鷲が大きく翼を広げている。胸のところに青、赤、白からなる盾が描かれているが、見ようによってはメイソンの証であるエプロンを着けているいるようにも見える。これは合衆国がフリーメイソン国家であることを示している。白と赤の線はアメリカ十三植民地を表し、青の線はそれを統合するアメリカ議会を示している。彼らの理想は鷲がくわえるリボンに書かれた「E Pluribus Unum(多から一)」という標語に端的に表れている。鷲の右足の爪には平和の象徴であるオリーブの小枝、左足の爪には戦争の象徴である矢の束が掴れている。

 鷲が向いている方向は右足側であり、フリーメイソンと合衆国が平和を志向する国家であることを暗示している。この図で重要なのは鷲の頭上に輝く星である。星の配列はメイソンの象徴の一つ「ダビデの星」を描いているが、その基本となっているのは重なり合った『テトラクテュス』なのだ。テトラクテュスとは古代の神秘思想家ピュタゴラスが考案したとされる数秘哲学的三角形のこと。今日われわれは数を単位数の寄せ集めとしか考えないが、ピュタゴラスは数を山や人間と同じくらい個性を持っていると信じ、そこにはあらゆる事物の要素が含まれてると考えた。彼にとって数とは宇宙の全大系が依って立つ根源的な原則であったのだ。ピュタゴラス教団が、あらゆる事物の完成であり、完全性の象徴とみなしたとが十という数字である。

合衆国国璽(表) カバラのテトラクテュス

 この十という数字は、ピュタゴラス学派において、単一と一対、能動性と受動性、三つ組みとその結果、四つ組とその自乗など、すべての数字と調和の関係を含んでいるものとされた。テトラクテュスは最初の数である1と2と3と4を足し神聖なる数である十としたもので、さらに全体として最も優れた形であるトライアングル(三角形)を形成している。テトラクテュスは錬金術思想やユダヤ神秘哲学などさまざまな象徴主義に取り入れられ、カバラにいたってはピュタゴラス自身、その知識をカバラから学んだとか、カバラと同じ源流に属するとかされている。上図は神聖なる神の名“ヨッド、ヘー、ヴァヴ、ヘー(アルファベットでYHWH)”をテトラクテュスの形に配置したもので、神の象徴である正三角形を構成している。

 1はピュタゴラス派における万物を産み出す単子(モナド)であり、そこには1〜10までの全ての数字が潜在的に含まれている。それはまた、カバラにおける天地創造の初めを意味し、原初にあった神性の流出を表している。カバラでは、天地万物は『流出』『創造』『形成』『活動』の4段階から生成したとされる。それはまた、神聖なる神を表す四文字“YHWH”と対応している。上記の図と照応すると、流出世界は“ヨッド”、創造世界は“ヨッド、ヘー”、形成世界は“ヨッド、ヘー、ヴァヴ”、そして活動世界は“ヨッド、ヘー、ヴァヴ、ヘー”となる。即ち、テトラクテュスは4段階で生成した生命の樹(ピラミッド)なのだ。それが十の単位から構成されるのは、生命の樹が10個のセフィロトからなるためである。同時に三角の各辺にある4という数字は、アリストテレスの四元素(火、風、水、土)を示しており、三角の底辺は人間を含めた万象の完成を象徴している。

◆参入儀礼とトレーシング・ボード

 フリーメイソンを特徴付ける最大の象徴主義は、その参入儀礼を通して知ることができる。ここでは『徒弟』『職人』『親方』の参入儀礼について概観してみよう。もっともフリーメイソンの参入儀礼は一定の形式に定められたことはなく、時代や地域によって大きな差がある。ここで紹介するのはあくまでも一例にすぎない。ところで、秘密厳守を原則とするフリーメイソンの参入儀礼の様子を、なぜ部外者が知ることができるのか、疑問に思われる方もいるかもしれない。実は、18世紀にはフリーメイソンの内情を明らかにする“暴露もの”が出版されており、現在ではフリーメイソンの実体を知る貴重な資料となっているのだ。そうした資料から再構成されるメイソンの儀式はおおよそ次のようなものである。ロッジは常に建物の二階に置かれ、その構成は三つの部屋に分かたれている。

 これは柱廊玄関・聖所・至聖所の三つの空間に区分されていた『ソロモンの神殿』を模しているものと思われる。柱廊玄関と聖所に相当する部屋において行なわれるのが徒弟と職人の参入儀礼であり、至聖所に相当する部屋で行なわれるのが親方位階の参入儀礼である(ちなみに、カバラではソロモン神殿を生命の樹の雛型とみなし、柱廊玄関を『下層世界』、聖所を『中高世界』、神の臨在する神聖空間である至聖所を『至高世界』にそれぞれ対応させている)。ロッジの内部では、マスターは東、シニア・ヴォーデン(マスターとともにロッジ運営にあたり、代理権限を持つ役職)は西、ジュニア・ヴォーデン(ロッジ訪問者がメイソンであることを確認する役職)は南、志願者は北というように位置が決まっている。

 それは志願者が太陽の光と熱に耐える力がないと考えられるためである(太陽は東から南を通り、西に沈む)。マスターはメイソンの象徴である直角定規とコンパスを持ち、彼の前の小テーブルには『ヨハネによる福音書』と槌が置かれている。床にはトレーシング・ボードと呼ばれる敷物・敷板が置かれている。『徒弟』と『職人』の参入儀礼の内容にはほとんど差異がないため、ここでは一括して紹介する。志願者はロッジに入ると、まず準備の部屋に通され、数分の間一人にされる。その後、身に着けているすべての金属類をはずし、左膝と左胸を出し、左靴の踵を潰す。『職人』の参入儀礼では右膝と右胸を出し、靴の踵も右の方を潰す。一般に、胸を出すのは志願者が女性でないことを証明し、膝を出し踵を潰すのは、志願者が経過した厳しい試練を示しているとされる。

 志願者は案内役(ジュニア・ディーコン)に導かれ、目隠しの布をつけて反省の部屋に入る。志願者はそこで3度のノックがするまで待つ。合図の音がすると、志願者は首にロープを巻かれて主室へと導かれる。主室では「ここに来た目的は何か」という質問がされ、志願者は「哀れな盲目の志願者である私は、長く暗闇にありましたが、暗闇から脱して光を見るために、この光栄あるロッジに来ました」と答える。志願者はロッジの中を引きまわされ、幾つかの試練を経験する。それは地下牢を想定した空間への監禁や、火の中を通ったりする試練とされ、いずれも巧妙な装置によって志願者だけがそう錯覚するように仕掛けられた擬似体験であるとされる。すべての試練が終わると、マスターの合図で志願者の目隠しがはずされる。

 その後、徒弟はボアズ(職人はヤキン)と呼ばれる握手法と合言葉を伝授されたあと、秘密厳守の誓いを述べ、トレーシング・ボードに描かれた二つの柱の間を通って、会員に「ブラザー(兄弟)」として受け入れられる。特筆すべきは参入儀礼の際に用いられるこのトレーシング・ボードである。トレーシング・ボードとはもともと中世の石工職人が使用した建築設計図のことであるが、メイソンが用いているそれはさまざまな文様を描きこんだエンブレム(寓意画)なのだ。トレーシング・ボードにも幾つかのタイプがあるが、すべてにおいて言えるのはそれがソロモン神殿のシンボリズムを共有しているということだ。手前にある2本の柱は柱廊玄関に立てられたヤキン(向かって左)とボアズ(向かって右)であり、7段の階段を上った先には聖所の入り口が、さらにその先には至聖所の入り口が存在する。

トレーシングボードは自己を完全なる存在(神殿)へと施工するための建築設計図である。
それはまた人類が神の写しへと変容する過程を表象する霊的階梯の図面――生命の樹の寓意画に他ならない。

 トレーシング・ボードを見て、直感的に感じることはそれがユダヤ神秘哲学、即ちカバラの世界観である生命の樹の寓意画との間に著しい共通点があるということだ。御覧の通り、トレーシング・ボートの図柄にはメイソンの象徴と呼ばれるものがほとんど全て出てくるが、基本的構造として各シンボルは縦3列に配置され、生命の樹における三本の柱――正と負と均衡の原理と完全に一致する。さらに、ソロモン神殿は中廊玄関・聖所・至聖所へと進むにつれて神という絶対者の領域に近づいていくよう設計されているが、これは生命の樹における自己完成の三段階『下層世界』『中高世界』『至高世界』の世界観と対応している。極めつけは、描かれた個々のシンボルに1〜33までの数字が当てられていることである。これは生命の樹を構成する11個のセフィロトと22本のパスを合計した33の素材を暗示している。

 フリーメイソンがカバラの神秘哲学を導入したことは間違いないだろう。しかし、トレーシング・ボードと生命の樹の寓意画を照応した場合、看過できない問題点が一つだけある。生命の樹を構成する3本の柱の中で、右側の慈悲の柱は正の原理(或いは男性原理)、左側の峻厳の柱は負の原理(あるいは女性原理)を表している。ここで今一度トレーシング・ボードを眺めてみよう。単純に考えれば慈悲の柱は右側の柱であるボアズと、峻厳の柱は左側の柱であるヤキンと対応していることになる。しかし、トレーシング・ボードを見ると、右側に正のシンボルである“太陽”が左側に負のシンボルである“月”が描かれている。これはいったい何を意味するのか?答えは旧約聖書の中にある。列王の書、および歴代の書に記録されたソロモン神殿の詳細な記述によれば、ソロモン神殿の入り口は東に向かい、後背部は西に向かっていた。

 中廊玄関に立てられた2本の柱については、「一本は南側に立てられて、ヤキンと名付けられ、もう一本は北側に立てられて、ボアズと名付けられた」(王上7:21)とあるが、これはトレーシング・ボードの配置と一致している。一方、歴代の書には同じ記事が、「その柱を聖所の正面の右と左に一本ずつ立て、右の柱をヤキン、左の柱をボアズと名付けた」(3:17)と記されている。両者は別に矛盾しているわけではない。神殿建設事業についての他の箇所と併せて読むと分かるが、旧約聖書の編者は、ソロモン神殿の東門に対面して右手側を左、左手側を右と定義しているのだ。なぜか?それはソロモン神殿が誰のために建てられた家かを考えれば理解できる。ソロモン神殿は神の住いである。神は人間と違い入り口から神殿に入ることはない。

 直接、至聖所に降臨し、東方に顔を向けてイスラエルの民に顕現するのだ。とすれば神の目から見て、右手方向にソロモン神殿の南側が、左手方向に同じく北側がくる。古代のあらゆる宗教、思想、あるいは神秘哲学において、右手側は正の原理であり、左手側は負の原理である。それはトレーシング・ボードにおいても同様。ヤキンは正の原理を表し、ボアズは負の原理を表しているのだ。一方、生命の樹の象徴図形は、その特殊な鏡像理論により左右の原理が逆転している。生命の樹を人型として表現した『アダム・カドモン』と呼ばれる寓意画では、神の写しである原初の人間アダムが“後ろ向きに”立っており、体の右半身が白く、左半身が黒く描かれている。トレーシング・ボードと生命の樹の差異はすべてこの事実に集約される。

 即ち、トレーシング・ボードでは神は前を向いており、生命の樹では後を向いているのだ。ところで、フリーメイソンがトレーシング・ボードを用いて儀式を行うおうとする際、実際のソロモン神殿とは逆に、ボードの中廊玄関部分を西に、至聖所部分を東に向けて設置する。これでは南側にボアズが、北側にヤキンが立つことになり、聖書の記述と符合しなくなる。一つの解釈として、メイソンはトレーシング・ボードをあえて逆さまにし、左右の原理を逆転することで、カバラにおける生命の樹と同じ象徴大系を想定しているのではないかと考えられる。事実、トレーシング・ボードの中には上のように生命の樹と同様、ソロモン神殿の左右が鏡に写ったように逆転したものが存在するのだ(ヤキンが向かって右に、ボアズが向かって左に描かれている!)。このボードは正の原理と負の原理の配置から見ても、生命の樹の象徴図形そのものと言える。

◆古代密儀宗教とフリーメイソン

 親方の参入儀礼は徒弟・職人位階のそれとは大きく異なるきわめて異質なものである。それは『ヒラム伝説』に基づいて行なわれる。すでに触れたが、ヒラムとはツロの王ヒラムがソロモン神殿建設に際し派遣した建築者のこと。ヒラム伝説によれば、ある日、三人の悪の職人が親方の秘密の合言葉を知ろうと、ヒラムに詰め寄った。しかし、ヒラムは彼らの要求を拒絶したため、命を狙われることになる。その日の真昼、神殿の東門にいた一人目の職人は罫引きを武器にヒラムに切りかかった。ヒラムはあやうく南門に逃げたがそこで二人目の職人に襲われる。そこで彼は西門に逃げたが、槌を持った三人目の職人に襲われて絶命した。三人の職人はヒラムの遺体を南門からとある山腹に埋め、そこにアカシアの小枝をさしておいた。

 しばらく経ち、ソロモン王は行方不明となったヒラムを捜索しようと、12人の職人を派遣。そのうちの一人がアカシアの小枝に手をかけると簡単に抜けてしまったため、掘り起こしてみるとヒラムの遺体が発見された。ヒラムの遺体は死後すでに14日を経過していたにもかかわらずまったく腐敗がなく、“ライオンの握手法”によって蘇生したという。親方位階の参入儀礼は徒弟・職人位階のボードとは異なるものを用いて下図のように行なわれる。ボードの中央に位置するのは志願者が横たわる“棺”であり、その上には復活と再生の象徴である“アカシアの小枝”が置かれる。志願者は両胸と両膝を出し、両踵を潰して儀礼に望む。これはすでに彼が徒弟と職人の試練を経験したことで心身の浄化が達成されていることを意味する。志願者はヒラムの役を演じるために棺に入るよう指示される。

 『ヒラム伝説』が朗読され、ヒラムが殺害され、ある丘に埋められる下りで、志願者は足をコンパスの方(上方)に、頭を直角定規の方(下方)に向けて棺に入れられる(実際には儀礼用トレーシング・ボードの上に寝かされる)。その後、ヒラムを蘇らせたのと同じ握手法で、志願者は棺から起こされる。志願者は秘密厳守の誓いを述べ、合言葉が伝えられて儀式が終了する。親方位階の参入儀礼の中心をなすのは、死と再生の儀式であり、志願者の霊的な復活である。志願者はヒラムの聖劇を演じることで彼と同一化しする。そして、その殺害と復活を象徴的に追体験することにより、既存の自己を一度殺し、自らの心にヒラムの霊を蘇らせることで自己変容を遂げるのだ。徒弟・職人位階における参入儀礼の主題が志願者の霊的浄化と神秘階梯の上昇にあるとすれば、親方位階のそれは志願者の霊的な向上の果てにある“神化”の達成である(後述)。

 メイソンのこうした精神の源流は古代密議宗教にある。古代世界において、どの社会にも自然の秘密に通暁した哲学者や神秘家がいた。彼ら偉大な知性の持ち主は、無知な大衆とは一線を画すためときに一団をなし、超俗的な哲学的・宗教的学派を形成していった。これが秘密結社の始まりである。秘密結社では秘教的つまり霊的な教えが開示され、古代の賢人のほとんどは、このような秘密結社に参入していた。有名な密儀としてイシス・オシリス密儀、エレウシス密儀、ディオニュソス密儀、ミトラス密儀などがあげられる。その参入式は異様な神秘的儀式によって行なわれ、参入者には太古より伝わる秘密の知恵を授けられた。こうした古代密儀宗教のイニシエーションには、ほとんどすべてにわたって共通する重要な主題がある。それは神(太陽神の場合が多い)の死と再生。

 人格化された神は宇宙の悪の原理を象徴する邪悪な悪漢たちに殺されてしまう。しかし、浄めと再生を象徴するある種の儀式・典礼を通して、この偉大な善の神はふたたび生の世界に帰還し、崇拝者たちの“救世主”となる。ドルイド教の参入儀礼では、密儀の志願者が彼らの神フーの役割を演じ、殺害と復活を体現する。太陽神フーは殺され、その後異常な試練や神秘的儀式を経た後に生命を回復すると信じられたのである。ドルイド密儀には三つの段階があるが、それをすべて通過する者はきわめて少ない。志願者は太陽神の死を象徴して棺の中に埋葬された。最後の試練が最大の難関であり、屋根のない小舟にのって海に流されたという。この試練でほとんどの人が命を失ったが、無地通過した者は“再び生れた者”と呼ばれ、神官たちが古代より受け継いできた秘教の伝授を受けた。

 ミトラス教の祭儀も三つの段階に分かれている。志願者は最初の段階で黄金の冠が与えられ、ミトラスの隠れた力の伝授を受ける。黄金の冠は志願者の霊的本性をあらわし、彼がミトラスの魂を宿さなければならないことを示している。第二の段階の至って彼は知性と純潔という武器を与えられ、地下の真暗な洞窟に遣わされる。そこで志願者は欲望、情熱、堕落という野獣と戦うことを求められる。第三の段階になると天文学的象徴が描かれた1枚のケープが渡され、儀式の終了とともに彼は死から蘇った者として祝福される。彼は教団の新参会員として認められ、ペルシアの秘密教義を伝授される。儀式全体にわたっては、ミトラスが太陽神として誕生し、人類の永遠の生の獲得のために彼が犠牲となり、そして最後に彼が復活してオフルムズド(アフラ・マズダー)の玉座の前で彼がとりなすことで人類全体が救済されることが繰り返し言及される。

 オーディン教の密儀では、悪の化身ロキに殺害された光の神、バルドルの死と再生の追体験が重要な目的となる。その儀式は地下聖堂や洞窟の中で行なわれ、密儀参入を求める志願者にはバルドルを死から蘇らせる使者の仕事が割り当てられ、同時に彼自身が復活したバルドルの役を演じる。彼は“巡礼者”と呼ばれ、アースガルズやムスペルヘイムなど北欧密儀の九世界を象徴する九つの洞窟を通過する。志願者は数時間、この入り組んだ通路を放浪した後に、バルドルの神像の前に導かれる。彼はここで秘密厳守と敬虔を誓い、あらゆる拷問や試練を通過した後に、知恵の神オーディンの密儀を開示される。彼には教団の会員の証である聖なる指輪が与えられ、死の門を通ることなく再生した人間として祝福されるのだ。

 密儀を語る際に避けて通れないのが、ディオニュソス(バッカス)密儀である。ディオニュソスは12月25日に処女から生まれ、人類のために数々の奇跡を行ったことから救世主と呼ばれた。彼は水を葡萄酒に変えたり、驢馬に乗って凱旋的な行進を行ったとあるから、イエス・キリストの神話と非常に似ている。そして彼もまたイエスのように復活する。ディオニュソスは巨人族の手にかかり八つ裂きにされてしまうが、心臓だけはアテナにより救出されていたため、太陽神アポロンの手助けにより土から復活する。ディオニュソス密儀の参入儀礼において、ディオニュソスの役を演じるのは新参者だった。彼は巨人族に扮した神官によって殺され、最後に喜びの真っ只中に復活した。ちなみに、ソロモン神殿建設に際し、ツロの王が遣わしたフェニキアの建築家たちはディオニュソスの信奉者であり、ヒラム・アビフはこの結社の密儀伝授を受けていたとされる。

 エジプトのイシス・オシリス密儀では太陽として象徴化される父なる神オシリスの殺害と生命の回復が主題となる。オシリスの兄弟であり悪しき神セトは、オシリスの王位を奪おうと反乱を企てた。セトとその共謀者はオシリスを巧妙な方法で棺の中に入れ、蓋に釘を打ち込み、ナイル川に投げ込んだ。自分の夫が殺されたことを察知したイシスは、すぐに喪服を身に着け、彼を探しに出かけた。イシスはビブロスの海岸で夫の遺体を取り戻したが、セトはそれを再び盗み、14の断片に切り刻んで地上にばらまいた。イシスは絶望しながらも切断された夫の遺体を集め、魔術で肉体の断片を繋ぎ合わせ、オシリスを復活させることに成功した。ただし、断片の一つ(生殖器)はすでに魚の餌となっていたため、14番目の部分は金で再製したという。

 古代エジプトの密儀において、ピラミッド内部の神聖空間は儀式・典礼を行うための重要な聖堂だった。エジプトの秘教を継承する密儀の参入者たちにとって、ピラミッドは燈台でも王の墓でも、ましてや天体観測所でもなかった。それは“見えざる神の最高の宮居”であり、秘密の真理の宝庫として築かれた“人類最初の密儀神殿”だった。ピラミッドは“第二の誕生”の場所であり、霊知を授かった古代の賢人たちは、人間として門の中を通り、神秘的な通路を通り抜け、“神”として出て来た。彼らはそこで大ピラミッドの叡智を知る“密儀の伝授者”あるいは“秘密の家の主”と呼ばれる未知の存在と出会い、秘教の開陳を受けたのだ。儀式は大ピラミッドの王の間で執り行われ、参入志願者は用意された大棺に入れて埋葬された。その後、志願者はオシリスのように新たな生を受けた。

 ――ここまで読んでくれた読者は、すべての密儀が非常に似通った構図となっていることに気づいたはずだ。古代密儀宗教は、祭儀・儀式を中心とする信仰形態である。公的宗教においても儀式・祭儀行為は行なわれるが、あくまでも公開のものであり、その対象は共同体全体に向けられている。一方、密儀宗教は非公開であり、その対象も個人としての参入者である。密儀の目的は単なる儀礼的な入社式ではなく、密儀に参加することである種の“宗教的経験”を得、志願者が精神的・霊的変容を遂げることにある。参入儀礼は多くの場合、幾つかの連続する試練を通して最奥の秘儀に参入するが、最後の試練は通例、“死の試練”である。死を克服して初めて、参入者は神的な力に目覚め、聖職者集団の一員として迎え入れられるのだ。よって、古代密儀宗教には必ずと言っていいほど死と復活、再生のシンボリズムが存在する。

 かつて霊験に目覚めた賢人たちはあらゆる社会で結社を作り、秘儀と叡智を伝授してきた。しかし、近代に入り、密儀宗教の衰退に伴って古代の叡智は急速に失われていった。しかし、現代において唯一古代密儀宗教の系譜を次ぐ結社が存在する。それがフリーメイソンである。再生と復活を果たすメーソンのヒラム・アビフは、ドルイド密儀のフーであり、ミトラス密儀のミトラスであり、オーディン密儀のバルドルであり、ディオニュソス密儀のディオニュソスであり、そしてイシス・オシリス密儀のオシリスに他ならないのだ。メーソンに秘密の参入儀礼を伝えた、ヒラム・アビフはディオニュソス教団の一員だった。では、ディオニュソス密儀はフリーメイソンなのか。正しくはそうではない。フリーメイソンという言葉自体、14世紀に初めて使われた団体名だ。

 しかし、メーソンの“精神”はシンボリズムこそ違えど、古代よりあらゆる密儀宗教(秘密結社)の背後に連綿と存在し続けた。近代フリーメイソンと同じ精神を共有する古代の密儀集団をメイソンと呼ぶとすれば、ディオニュソス密儀を伝えたのはギリシアにあったヤフェト系メイソンであり、イシス・オシリス密儀を伝えたのはエジプトにあったハム系メイソンだったといえる。北欧、ケルト、ペルシア、ギリシア、エジプト…密儀の存在するところ必ずメイソンが存在した。ではセムの地、ユダヤ・キリスト教の母胎となった中東地域においてメイソンは存在したのか。もちろん存在した。ユダヤの王ソロモンは近代フリーメイソンの伝説において偉大なメイソンとされている。新約聖書においてソロモン直系の子孫とされるのがイエス・キリストである。原始キリスト教がある種の密儀集団だったことは現在では誰しもが認めること。

 それはイエスがエッセネ派の大祭司であるヨハネからバブテスマ(洗礼)を受けていることからも分かる。バブテスマは沐浴とは違う。沐浴は心身の汚れを洗い落とすユダヤの儀礼的な慣習に過ぎない。一方のバブテスマはその神秘性・一回性から見ても明らかなように古代密儀の仲間であり、身体を完全に水底に沈めることで――あたかも母の胎内の胎児のように――新たな生命に目覚めることを秘儀とする参入儀礼(イニシエーション)である。ここでメーソンの参入儀礼を語る際には欠かすことのできないモーツァルトの劇作品『魔笛』についても触れておこう。モーツァルトは1784年12月にフリーメイソンに加入し、翌1785年には名作『フリーメイソン葬送音楽』を作曲するなどフリーメイソンの運動に積極的に参加し、フリーメイソンの関連作品を10点ほど残している。

 中でも『魔笛』はフリーメイソン運動が生み出した最大傑作と言われている。モーツァルトがメイソンだったと聞くと驚く人もいるだろうが、それはフリーメイソンを知らないからである。近代フリーメイソンは理神論・啓蒙主義など、18世紀ヨーロッパの時代精神を体現する一流の思想家たちの集まりだったのだ。『魔笛』の主筋は主人公のタミーノが夜の女王の娘パミーナとともにザラストロのイシス・オシリス密儀というエジプト密儀に参入するまでの過程である。ここで古代密儀の名を借りた参入儀礼は、実際にはフリーメイソンの参入儀礼そのものとなっている。第一幕の終りにおいてイシス・オシリス密儀の大神官であるザラストロは「この二人の者を、われらの試練の神殿へ案内せよ。二人には頭巾を被せよ、二人はまず清められねばならぬ」と参入儀礼の開始を宣言する。

 ここで二人の頭をおおう頭巾は、フリーメイソンの参入儀礼において志願者がつける“目隠しの布”に対応する。第二幕の冒頭では、タミーノが試練を受ける資格があるかどうかについてザラストロが三人の聖職者と短い問答を行う。それは「彼は徳を備えていますか。」「彼は沈黙を守れますか。」「彼は慈悲の心を持っていますか。」というものだが、いずれもメーソンにおいて重視される徳性である。その後、ザラストロの命令により二人は神殿の前庭に引き出され、試練が実際に開始される。最初の試練は“神々が幸いをもたらす沈黙”の試練であり、二人は三人の侍女の誘惑に強い意思を持って沈黙を守り続ける。その後、二人は「火の試練」と「水の試練」を受けることになる。火の試練ではパチパチと燃える炎の中を通過し、水の試練では一度水に完全に没し、しばらくして水から上がる。

 二つの試練を通過すると、門が開き、明るく照らし出された神殿に通ずる入り口が見える。そして、神殿の内部から次のような神官の合唱が聴こえてくる。「耐えぬいた、試練に勝った、気高い二人よ。あなた方は危険に打ち勝った。イシスの神に仕える資格は与えられた。さあ、神殿に入るがよい」。こうしてパミーナとタミーナは神殿の内部へと導かれ、イシス・オシリス密儀の参入者となるのである。二人が試練を通過することによって得たものはいったい何だったのか?それは霊的な覚醒であり、神との合一すなわち人間の神化である。これは筆者の見解ではなく魔笛オペラの、そしてフリーメイソンの基本精神なのだ。「徳と正義が、偉大な人の歩む道を栄誉で飾るとき、この世は天国となり、俗人も神々に近づく」(第一幕一九場)もちろん人間の神化という主題は、文字通り人間が神になるということではない。

 神とは啓示宗教の神ではなく、理神論・啓蒙主義の精神によって実現される人間の道徳的な完成を意味している。そしてそれを成し遂げた人物こそがイエス・キリストだった。福音書によればイエスの職業は『大工』すなわち建築者であり、まぎれもなくフリーメイソンだった。30歳までのイエスの事績はまったくといっていいほど残っていない。なぜか?イエスはまだイニシエーション(参入儀礼)を受けていなかったからである。ここでいうイニシエーションとは、イエスが霊的な覚醒を成し遂げ、真のメイソンとなるために通過しなければならなかった数々の試練と密儀を意味している。試練とは40日40夜の断食と悪魔の誘惑であり、密儀とはヨルダン川におけるヨハネのバプテスマ(水の洗礼)と聖霊の浄化である。魔笛においてパミーノは“沈黙の試練”を受けた。二人はそこで三人の侍女の誘惑を耐えぬき沈黙を守った。

 一方、イエス・キリストは荒野で悪魔の3度の誘惑を受け、最終的に悪魔を退けた。さらにパミーノとタミーナは“火の試練”と“水の試練”を通過することで、イシス・オシリス密儀の入社資格を認められイシスの神殿へと参入した。もうお分かりだろう。イエスが受けたヨハネの洗礼はまさしく水の試練であり、続く聖霊(火)の降誕は火の試練に他ならないのだ。ヨハネによる福音書に記録されたイエスの言葉には次のようなものがある。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って、生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(3:3−5)

 イエスは水と霊(火)によって新たに生まれた。これが意味するのは原始キリスト教がある種の古代密儀であり、再生と復活の秘儀を継承していたということである。パミーナとタミーナが火と水の試練を通過した後、神殿の奥から神官たちの厳かな祝福の声を聴いたように、洗礼を終えたイエスには天から父なる神の祝福の声が届いた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」。メイソンの目標は徳性の涵養により自己を完全なる人間へと変容すること。その延長線上には人間の神化という究極の夢がある。フリーメイソンは数ある聖典の中でも(聖書はもちろん、コーランやヴェーダもメイソンにとって至高存在の啓示の書である)特に『ヨハネによる福音書』を重視する。それは他でもない、福音記者の中でイエスの神格化をもっとも押し進めたのがヨハネだからである。

 「わたしを見たものは、父を見たのである」(14:9)の一節に端的に表れているように、福音記者ヨハネは人間イエスを父なる神と等しい存在として描いており、人間の神化の道を拓いている。フリーメイソン憲章はイエスを畏敬の念を込めて『教会の偉大なる建築者』と呼ぶ。メイソンにとって人間であり、かつ神でもあるイエス・キリストは究極の理想であり、すべてのメイソンが志向する完全なる人間の唯一の実現であった。メイソンの存在目的にはミクロ的なものとマクロ的なものがある。ミクロを個々の人間の自己完成だとすれば、マクロは完成された人間により構成される理想的世界の建設、即ち神の王国の実現である。国とは人なくして存在せず、逆に人の集まりあるところには国がある。神の王国は空から降りてくるものでも、神から一方的に与えられるものでもない。それは国を構成する個々人がイエスのような真実で善良なる人間となることにより、はじめて達成されるものなのだ。

 イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(『ルカによる福音書』第17章20−21節)