<年代別>
■1970年 ■1971年 ■1972年 ■1973年 ■1974年 ■1975年 ■1976年
■1977年 ■1978年 ■1979年
<階級別>
■フライ級 ■バンタム級 ■フェザー級 ■ライト級 ■ウェルター級 ■ミドル級
■Lヘビー級 ■ヘビー級
■70年代の名勝負 ■70年代「リング」誌最優秀ボクサー ■トップページ
■70年代の名勝負 Vol.9 (2003年1月10日更新)
▼WBA世界フェザー級タイトルマッチ(1974年2月16日)
WBA王者・エルネスト・マルセル 15R判定 挑戦者・アレクシス・アルゲリョ
71年11月、松山市で柴田国明の持つWBC世界フェザー級王座に挑んだエルネスト・マルセルはスピードを活かした柔軟なボクシングで王者の強打を封じ、優勢に試合を進めながら、不運なドロー判定で王座奪取はならなかった。
翌72年8月、マルセルは日本の西城正三から戦慄的なKOで、WBA王座をベネズエラに持ち帰ったアントニオ・ゴメスに挑戦、圧倒的な判定勝ちで王座に就いた。以後、エンリケ・ガルシア(判定)、ゴメス(12RKO)、スパイダー根本(9RKO)と3度の防衛に成功。74年2月16日、パナマシティにアレクシス・アルゲリョを迎え、4度目の防衛戦に臨んだ。
スピード、テクニックに優れ、万能型のマルセルは難攻不落の王者として高い評価を得ていた。対するアルゲリョは世界ランカーのオクタビオ・ゴメスを2RKO、元王者のホセ・レグラを1RKOして注目された強打の新鋭だったが、世界的には無名の存在だった。
序盤は長身の挑戦者がプレッシャーを掛けて左右強打を決め、攻勢を取った。マルセルはいきなりの右で迎撃。距離を取りながら、機を見てステップイン、右をリードに使い、あるいは左フックの有効打を決める。
3R、アルゲリョが連打で攻勢を取ったが、マルセルも後半に反撃。一進一退の攻防が続いた。
4Rあたりから、マルセルが右ストレート、左フックの強打でペースを握った。頭を下げて飛び込んで来るマルセルのスタイルは相手にとって実にやりにくく、厄介だ。
中盤はアルゲリョが右アッパー、右ストレートの強打で反撃。9Rには再三ロープ際に詰めて連打を見舞い、10Rには強烈な右ストレートでマルセルを追い詰める。
マルセルはスタミナ配分を考慮してか手数を控えていた感もあった。
12R、13Rはマルセルがピッチを上げ、右ストレート、左フックの連打でポイントを挙げた。終盤の14、15R、マルセルはフットワークを駆使しながら、要所で連打。
アルゲリョは挑戦者らしく積極果敢な攻めで王者を追い詰め、マルセルも終盤、キャリアと巧さを発揮し、僅差の勝負となった。判定は小差ながら3−0でマルセルに挙がった。
マルセルのスピードと巧さが上回った試合だったが、21歳の長髪も初々しい若きチャレンジャーの大善戦が光る1戦でもあった。長身から放つ左右の強打は王者を大いに苦しめ、後の活躍を予感させる堂々たる戦いぶりだった。
マルセルは「アルゲリョはきっと近い将来、世界チャンピオンになる」と敗者を讃え、リング上で王者のまま引退を表明。その言葉通り、74年11月、アルゲリョは決定戦で王座に就いたオリバレスを劇的なKOで下し、見事にWBAの王座に輝いた。
若き日のアルゲリョが名王者マルセルに挑んだ、70年代のフェザー級史を彩る記念碑的な名勝負だった。
■70年代の名勝負 Vol.8 (2002年8月15日更新)
▼WBC世界ミドル級王座決定戦(1974年5月25日)
WBC2位・ロドリゴ・バルデス KO7R WBC3位・ベニー・ブリスコ
70年代にモンソン、バルデスの好敵手として活躍、「無冠の帝王」としてボクシングファンの記憶に名を留めるベニー・ブリスコ。
「海坊主」の異名を取ったつるつるのスキンヘッドにいかつい顔。両の拳に秘められた強打は、対戦相手にとって「危険な」意味合いも込めて“バッド・ベニー”と呼ばれ、地元フィラデルフィアで絶大の人気を誇っていた。
67年にモンソンの地元ブエノスアイレスに乗り込み、10R引分け。後の世界Lヘビー級王者・ビセンテ・ロンドンや、ジョー・ショウ、ファレス・デ・リマ、ティト・マーシャルらの強豪に初戦で不覚を取ったものの、再戦ではきっちりとKOで雪辱するなど、永らくミドル級のトップランカーとして君臨。(J・ミドル級時代も不動の1位だった)72年、モンソンの王座に挑戦したが、判定負けで涙を呑んでいる。
ロドリゴ・バルデスはギル・クランシー・マネージャーに見出され、母国コロンビアからニューヨークに渡り、70年7月以降は連戦連勝。不動の王者として君臨していたモンソンの牙城に迫る活躍を見せていた。73年には北米タイトル戦でブリスコに小差の判定勝ちを収めている。
74年、WBCはモンソンがトップコンテンダーのバルデスの挑戦を拒否したとしてタイトルを剥奪。同年5月25日、モナコのモンテカルロで、2位・バルデスと3位・ブリスコとの間で空位のWBC王座決定戦が挙行された。
試合は初回から激しい打ち合いとなった。ファイターのブリスコは左右フックを放ちながら前進。強引なプレッシャーをかけてバルデスをロープに詰め、強打を浴びせる。バルデスも負けずに打ち返し、リング中央ではガードを固めて左を突きながら、距離を取って迎え撃つ。1R中盤、バルデスの右カウンターでブリスコがよろめき、すかさず連打してポイントを奪った。
2R以降も前に出るブリスコをバルデスが迎え撃つ展開で、時折りバルデスの強烈な右、左フックがヒットし、コンビネーションの正確さでバルデスが上回った。ブリスコは強烈な左右ボディブローを中心にバルデスに迫り、何度もロープ際に詰めて左右フックを連打するが、バルデスも左右フックで応戦。4Rにバルデスは左目上をカット。5R、6Rは渾身の力を込めた強打の交換で、両者1歩も引かぬ打ち合いが続いた。
7R、序盤にブリスコの強烈な右がヒット。チャンスとばかりにプレッシャーを強め、連打するブリスコ。バルデスも左右フックを強振して応戦、強烈な左をヒットして逆襲に転じた。そして、バルデスの強烈な右フックがブリスコのアゴを捉えると、タフなブリスコも堪らず仰向けにダウン。なんとか立ち上がったブリスコだったが、足元はおぼつかず、レフェリーはカウント10を数えた。ブリスコが右を放った瞬間に決まった見事なカウンターだった。バルデスは鮮やかなKO勝ちでモンソンの対立王座の座に就いた。ブリスコは初のKO負け。バルデスの戦慄の強打が印象に残る1戦だった。
WBCの新王者となったバルデスは4度の防衛に成功した後、76年6月、モンソンとの統一戦に敗れ、無冠に。翌年7月の再戦でも勝てなかった。(ともに判定負け)
77年11月、モンソンの引退の後、統一王座を賭けてバルデスとブリスコは三たび対戦。バルデスが判定でブリスコを返り討ちにしている。
■70年代の名勝負 Vol.7 (2002年4月4日更新)
ナポレスの王座に2度挑んだアーニー・ロペス、ヘッジモン・ルイスもまた、数々の強豪との激戦を勝ち抜いてきた歴戦の猛者だった。ナポレスは負傷TKO負けを喫したバッカスにリターンマッチではTKOで完勝するなど、再戦では抜群の強さを発揮。ロペス、ルイスとの再戦でもで快心のKO劇を演じ、その本領を見せている。前回のプリット戦の他にも、その時点での最強の挑戦者を迎え撃ったナポレスのロペス、ルイスとの1連のライバル対決は70年代のウェルター級シーンの中でも印象に残る名勝負だった。
▼世界ウェルター級タイトルマッチ
ホセ・ナポレスVSアーニー・ロペス(第1戦・70年2月14日、第2戦・73年2月28日)
今ではすっかり弟のダニーの方が有名になってしまったが、当時のアーニー・ロペスは好戦的なファイトでロスを代表する人気ボクサーだった。“インディアン・レッド”の愛称で親しまれ、ロペスは強豪ひしめくウェルター級で常に世界の上位をキープしていた。同じく太平洋岸を本拠地とするヘッジモン・ルイスとは2勝(2KO)1敗。67年には来日し、12連続KOを続けていたムサシ中野を2RKOで退け、日本のファンにも本場の重量級の凄さと厚い壁をまざまざと見せつけている。
70年2月14日、ロスのフォーラムで激突した第1戦はナポレスが初回と9回にダウンを奪う。すでに傷だらけとなっていたロペスは14回、信じられないような反撃を見せて、フォーラムを埋めた満員の大観衆を大いに沸かせた。しかし、最終回(15R)にナポレスの左右フックが爆発、キャンバスに崩れ落ちてゆくロペスをレフェリーが救ってストップが宣言された。ロペスは初めてのKO負けだった。ナポレスは1位挑戦者を退け、3度目の防衛に成功した。
3年後の73年2月28日に行われた再戦はナポレスの左リードが冴え、1R終了間際にはボロ・パンチ(腕を1回転させて放つアッパー)を繰り出す余裕も見せる。ポイントをリードしたナポレスは7Rに左フック、右ストレートでチャンスを掴み、左右フックでラッシュ。そして、1瞬の間を置いて放った右アッパーがものの見事に決まってロペスをKO。大の字に倒れたロペスがそのまま10カウントを聞く、鮮やかなフィニッシュ・シーンだった。
ナポレスは、王座返り咲き後4度目(通算では7度目)の防衛に成功。
▼世界ウェルター級タイトルマッチ
ホセ・ナポレスVSヘッジモン・ルイス(第1戦・71年12月14日、第2戦・74年8月3日)
ルイスは名トレーナー、エディ・ファッチが「シュガー・レイ・ロビンソンのようなファイターに育てたい」と手塩にかけた技巧派ボクサー。左手をだらりと下げたデトロイト・スタイルからのフリッカー・ジャブとキレのある右ストレートを武器に、スタイリッシュな戦いぶりで観客を魅了した西海岸の人気ボクサーだった。1972年にはニューヨーク州公認の世界王座をビリー・バッカスと争い、大差の判定勝ちでマイナーながら“世界”王座を手にしている。
71年12月14日に行われたナポレスVSルイスの初戦は、ナポレスがバッカスからタイトルを奪回した後の初防衛戦として行われた。世界初挑戦のルイスは好調な立ち上がりを見せ、軽快なフットワークからスピーディな左ジャブを決めてポイントをリード、ナポレスは古傷の左目をカットする苦戦。しかし、後半はナポレスが追い上げて小差の判定勝ちを収めた。採点はラウンド制で8−6,8−7,9−4だった。
ルイスとの再戦は74年8月3日、ナポレスの王座返り咲き後7度目(通算10度目)の防衛戦として行われた。序盤から積極的に出たナポレスがペースを握り、9Rに左右フックで猛然とラッシュ。ロープ際でグロッギーに陥ったルイスを見て、レフェリーはストップを宣言。初戦の苦戦の判定勝ちから、きっちりとKOでかたをつける快心の勝利だった。年齢的な衰えから苦戦の続いた晩年では、最もナポレスらしい王者の意地とプライドを見せた試合でもあった。
ルイスはニューヨーク州公認の王座こそ手にしたものの、ついにメジャータイトルには手が届かなかった。彼もまた、ナポレスの厚い壁に涙を呑んだボクサーだった。
■70年代の名勝負 Vol.6 (2002年3月15日更新)
▼世界ウェルター級タイトルマッチ(1972年6月10日)
WBA/WBC王者・ホセ・ナポレス TKO2R 挑戦者同級1位・アドルフ・プリット
無冠時代がピークだったと言われるナポレスだが、本来のJウェルターから1階級上げたウェルター級でチャンスを掴み、遅咲きの花を咲かせている。69年4月コークスを破り、ウェルター級王座に就いたナポレスは、古傷の両マブタをカットするアクシデントで1度はバッカスにタイトルを奪われたものの、再戦では4RKOであっさりとタイトルを奪回。エミール・グリフィス、アーニー・ロペス、ヘッジモン・ルイスら強豪の挑戦を退け、ウェルター級王者としては円熟期にあった。
挑戦者のプリットは66年にウェルター級の強豪アーニー・ロペスに判定勝ち、68年にはペドロ・アディグとのWBC・Jウェルター王座決定戦、70年、ローチェのWBA同級タイトルに、いずれも敵地で挑戦して惜敗。69年にはノンタイトルでアディグにKOで雪辱、WBCJライト級王者、レネ・バリエントスもノンタイトルでKOするなど、Jウェルター級のトップランカーとして君臨。70年7月には世界進出を狙った日本ウェルター級王者、龍反町を2RでKO、日本でも黒い旋風を巻き起こした。
ウェルター級に照準を合わせてからはヘッジモン・ルイス、パーシー・ピュー、ライオン古山など強豪を連破、ラウル・ソリアノに不覚を取ったものの直ぐに雪辱、ウェルター級のトップコンデンターの座を永らく維持していた。
ナポレスとプリットは65年12月、Jウェルター級時代に1度対戦し、ナポレスが3RTKO勝ちを収めている。2度目の対戦は6年半後の72年6月10日、ウェルター級王者、ナポレス3度目(通算では6度目)の防衛戦として行われた。
プリットのゴムまりのように躍動する褐色の筋肉は豊かな才能を漂わせていた。最強の挑戦者は1Rからウィービングを駆使、左右フックの強打を振るい、アグレッシブに迫った。プリットの左フック、右アッパーが決まる場面もあったが、王者のナポレスは挑戦者の殆どのパンチを紙一重で見切り、的確な左フック、右アッパーのカウンターで迎え撃った。
2R、激しい打ち合いのさ中、ナポレスは右アッパーを決めてプリットをロープ際に追い込み、猛然とラッシュ。左右の連打でプリットが防戦一方に追い込まれると、すかさずレフェリーが試合を止めた。やや早いストップのようにも感じたが、メキシコ国内では当時から他国よりも早目のストップが進んでいたように思う。僅か2Rの攻防ではあったが、ハードパンチャー同士の一瞬たりとも眼の離せないスリリングな1戦だった。
故大場政夫は「ナポレスのパンチは全てがカウンターになっている」と感嘆していたことがあったが、プリット戦はナポレスの真骨頂を見せた快心の試合の1つと言っていいだろう。反町戦で強烈な印象を残していったプリットが、僅か2Rで粉砕されたニュースは日本のファンにも大きな衝撃を与えた。ナポレスの強さをより一層印象付けた一戦でもあった。
60年代にWBCが発足し、タイトルが次々と分裂していく中で、ナポレスは75年にWBA王座を放棄するまで統一王者だった。タイトルが1つ、あるいはWBAとWBCの2つしかなかった時代は、王者も挑戦者も数多くの強豪とグローブを交え、彼らは掛け値なしに強かった。最強の挑戦者が最強の王者に挑む。当たり前のことが当然のように実施されていた古き良き時代でもあったと思う。
■70年代の名勝負 Vol.5 (2001年7月20日更新)
▼WBC世界Lヘビー級タイトルマッチ(1979年4月22日)
挑戦者・マシュー・フランクリン KO8R WBC王者・マービン・ジョンソン
1978年12月、マービン・ジョンソンは共産圏初の世界王者、メート・パルロフを10RTKOに降し、WBC世界Lヘビー級王座に就いた。ジョンソンは好戦的なサウスポーのボクサー・ファイターで、ミュンヘン五輪ミドル級銅メダルというアマの実績もあり、そのテクニックは高く評価されていた。1979年4月22日、ジョンソンは初防衛戦の相手に宿敵マシュー・フランクリンを迎える。両者は2年前に空位の北米王座を賭けて対戦、激しい打ち合いの末、マシューが最終12RKO勝ちを収めていた。
挑戦者のマシュー・フランクリンは、捨て子という境遇からボクサーとして身を立てたハングリー・スピリットの塊のようなボクサー。そのファイトぶりも真っ向からの打ち合いを好み、数々の逆転KOを演じるなど“ミスター・エキサイティング”と呼ばれるほど激しかった。
試合は予想通りの激戦となった。雪辱を期す王者のジョンソンは1Rから積極的に攻勢を仕掛け、的確な左ストレートを決めてスロースターターのフランクリンからポイントを奪った。ジョンソンが飛び込み、身長、リーチに優るフランクリンが迎え撃つという展開だったが、2Rにはフランクリンが強烈な左右フック、右アッパーをヒット、激しい打ち合いとなった。
3Rはジョンソンの強烈な左アッパーが良く決まり、攻勢を取った。続く4Rもジョンソンのラウンド。5Rも似たような展開だったが、フランクリンはラウンド終盤にボディブローを中心に猛攻。ようやくエンジンがかかってきたフランクリンは6Rに左右の強打を上下に集中、明確なラウンドを取った。
スピードのジョンソンに対して、パワーで上回るフランクリンが打ち勝ってきた格好だ。フランクリンは7R終了間際にもジョンソンをロープに詰めて猛ラッシュを敢行。続く8R、激しい打ち合いのさなか、左目を大きくカットしたフランクリンはパワーパンチの連打で猛然とラッシュ。ジョンソンをロープ際に追い詰め、右フックから最後は左アッパーをフォローして痛烈なダウンを奪った。
前のめりに崩れ落ちたジョンソンは何とか立ちあがったもののダメージは大きく、レフェリーが試合をストップ。両者血まみれの死闘の末、8R劇的なKOでジョンソンを返り討ちにしたフランクリンは一気に世界の頂点へと駆け上がった。
これで、WBC王座はコンテの剥奪以後、クェリョ、パルロフ、そしてジョンソンといずれも初防衛に失敗。Lヘビー級はWBAのガリンデス、WBCのコンテの並立時代が終焉、戦国時代の様相を呈していた。フランクリンはWBC王座獲得後、モスリムのマシュー・サアド・ムハマドに改名。81年12月、ドワイト・ブラクストン(ドワイト・ムハマド・カウィ)に敗れるまで、初防衛からの7連続KOを含む8度の防衛に成功し、戦国時代を抜け出してLヘビー級に一時代を築いた。
ジョンソンはマシューに敗れた7ヶ月後、WBA王座に返り咲いたばかりのビクトル・ガリンデスに挑戦。11RKO勝ちで王座に復帰するが、エディ・グレゴリー(エディ・ムスタファ・ムハマド)に11RTKOで敗れ、またも初防衛に失敗。だが、86年2月、WBA王座決定戦でレスリー・スチュワートに7RTKO勝ちして6年ぶり、3度目の王座に就くという快挙も演じている。
70年代後半から80年代にかけて、Lヘビー級にはマシュー、ジョンソン、グレゴリー、カウィら、個性溢れる魅力的なスラッガーが集結した。アリ、フレイジャー、フォアマン、ノートンら70年代のヘビー級4強時代に比べると見劣りするのは致し方ないだろう。あるいはレナード、ハーンズ、デュラン、ハグラーの中量級4強時代のような華やかさはなかったかもしれない。しかし、マシュー、ジョンソン、グレゴリー、カウィの4人がそれぞれグローブを交わし、しのぎを削った当時のLヘビー級が一際輝いていたのも事実だ。
■70年代の名勝負 Vol.4 (2001年6月20日更新)
▼ノンタイトル10回戦 (1977年4月23日)
WBC世界バンタム級王者・カルロス・サラテ KO4R WBAバンタム級王者・アルフォンソ・サモラ
1960年代末、驚異的なレコードを引っさげてバンタム級の頂点に駆け上がった“怪物”オリバレス。彼の登場以後、バンタム級はメキシコの独壇場となった。そして70年代に登場した2人のKOセンセーションによって新たな歴史が書き加えられた。
ミュンヘン・オリンピック銀メダリストからプロに転向したアルフォンソ・サモラは連続KOで順調にスター街道を歩み、75年3月洪秀煥に4回KO勝ちし、WBAバンタム級王座を獲得。
同じクーヨ・エルナンデス門下のカルロス・サラテは連戦連勝を続け、実力を認められながらもサモラのアイドル的人気の陰に隠れ、世界も先を越されてしまった。サラテがロドルフォ・マルチネスを9回KOで破り、WBC王座に就いたのはサモラから遅れること1年、76年5月のことだった。
やがて、サモラは金銭的な問題からエルナンデスとケンカ別れし、父アルフォンソ・サモラは高額なマネージ権を買い取る為、マヌエル・フェンテス氏を契約上のマネージャーとしてお金を用立ててもらい、自らは実質上のマネージャーに収まった。
そして77年4月23日、ロスのイングルウッド・フォーラムで、28戦全KOのWBA王者サモラと、47戦全勝(46KO)のWBC王者サラテの宿命のライバルが激突した。試合はノンタイトル10回戦として行なわれたが、実質上の統一戦といってよかった。メキシコでの下馬評はサモラがやや有利だったが、これは人気者のサモラ贔屓の予想だったように思われる。
試合は1Rから激しい打ち合いとなり、サモラが左フック、右ストレートの強打を決めてポイントを奪った。この初回にはエキサイトしたファンがリングに乱入し、試合が20秒ほど中断されるハプニングもあった。2Rはサラテが多彩な左リードと右ストレートで反撃。ペースは徐々にサラテへと傾いていった。
そして迎えた3R、サラテの左フックのダブルが決まり出し、ラウンド終盤に右ショート・フックを顔面に決めるとサモラはたまらずキャンバスに膝を突いてしまう。8カウントで立ち上がったサモラは左右フックで激しく打ち合ったが、サラテの強打で膝を揺らされ、辛うじてゴングに救われた。続く4R、サラテは左右の連打で再びダウンを奪う。立ち上がったサモラのハンサムな顔は無残に腫れ上がり、おびただしい鼻血も流れ、ダメージは大きい。一発逆転を狙って左右フックを強振するサモラだったが、左ダブルから左右の強打を浴びて、前のめりに痛烈なダウン。ここで、サモラ・シニアがタオルを投入し、試合は終わった。壮絶なラストだった。
クーヨ・エルナンデスとサモラ親子には感情的な確執があり、試合直後に遺恨が爆発。サモラ・シニアがタオル投入後、相手コーナーに突進、エルナンデスに殴りかかったのだ。控え室に戻る途中でも再び襲いかかり、この行為でサモラ・シニアはカリフォルニア州コミッションにサスペンドされている。
実質上の最強の座に就いたサラテだが、その陰にはサモラを知り尽くしていたエルナンデスの存在も見逃せない。父親を新マネージャーとしたサモラだが、エルナンデスとではハンドラーとしての能力に格段の差があったのは否めないだろう。その後、サモラは坂道を転落するかのように黒星を重ね、再び脚光を浴びることはなかった。
サラテはサモラとの宿命の対決で燃え尽きてしまったのか、1年半後に1階級上のゴメスに挑み、1敗地にまみれてしまう。やがてサラテもエルナンデスと袂を分かち、かつての同門ピントールに不可解な判定で敗れた。(この試合はエルナンデスが2人のマネージ権を譲渡することで実現した)
試合は4Rにダウンを奪ったサラテの明白な判定勝ちに見えたが、判定は意外にも2人が143-142の1ポイント差でピントール、残る1人は145-133でサラテだった。AP通信の採点でも147-138の大差でサラテを支持、この不可解な判定は裏でエルナンデスが動いていたのではないかという疑惑も消えなかった。
サモラ、サラテともにエルナンデスの下を去って、初黒星を喫している。全てはクーヨのシナリオ通りに事は進んだ。良くも悪くも、そのマネージャーとしてのしたたかな手腕には驚嘆せざるを得ない。
■70年代の名勝負 Vol.3 (2001年5月30日更新)
▼WBA世界フェザー級タイトルマッチ (1971年9月2日)
挑戦者同級1位・アントニオ・ゴメス KO5R WBA王者・西城正三
単身でメキシコ、米国に遠征し、海外で日本人初の世界タイトル奪取を果たした“シンデレラ・ボーイ”西城正三は、何から何まで絵になる男だった。軽快なフットワーク、“フラッシュ”(閃光)と形容されたスピーディなアウトボクシングでロハスを破り、日本人初の世界フェザー級王者に就いた西城は5度の防衛に成功し、6度目の防衛戦で最強の挑戦者を迎えた。
アントニオ・ゴメスは西城が初防衛戦で退けたペドロの6歳年下の実弟で、柴田をKOした世界ランカーのドワイト・ホーキンスを最終回にストップして一躍注目を浴びた。戦績は35勝(23KO)1敗。フェザー級時代のセルバンテスにも判定勝ちするなど名実ともにトップコンテンダーの実績は十分だった。(ゴメスは後にフェザー級時代のヘススにもノンタイトルで判定勝ちしている)
ベネズエラの未知の強豪に対し、「西城危うし」の前評判が高かったのも当然といえるだろう。西城陣営では、強打のファイター、ゴメスに対して「フットワークを使ってアウトボクシングをする」という作戦で一致していた。そして71年9月2日、運命のゴングが鳴った。
挑戦者ゴメスは慎重に様子を窺い、時折り左を突くのみで右のブローは全く出さない。西城は王者になってからインファイトに進境を見出し、ファイター・スタイルに変貌していた。この日も試合前の作戦とは打って変わって足を使わず、果敢に打ち合いを挑んだ。1R終了間際にゴメスの恐ろしく伸びる左ジャブで西城はダウン。(判定はスリップ)
2Rもゴメスは殆ど右を出さない。挑戦者陣営は来日以来、徹底的に手の内を隠して関係者の見ているところでは一度も右を使わなかった。ゴメスのフィニッシュ・ブローはショートの右だった。試合でも主武器の右を温存する挑戦者に不気味さが漂った。
そして3R、左フックでチャンスを掴んだゴメスは、右のショート・フックでダウンを奪った。立ち上がってからの西城の猛反撃が圧巻だった。左右フックのもの凄いラッシュでゴメスをロープに詰める。西城が王者の意地を見せたラウンドだった。惜しむらくは力みが見られたことだろう。もっとショートを織り交ぜての的確な連打があれば逆転のダウンも奪えたかもしれない。
4Rもゴメスは左一本で右は出さない。挑戦者陣営のチャンスが来るまで秘密兵器の右を隠すという作戦は徹底していた。5R、ゴメスの右が遂にヴェールを脱いだ。西城の左をかわし様に、ゴメスのもの凄い右クロスが炸裂する。ぐしゃりと前のめりに崩れ落ちた西城は、苦悶の表情を浮かべながら仰向けになった。試合はこの一発で決まっていた。
この時、両陣営ではちょっとしたトラブルが起きていた。赤コーナー下では西城の実兄、正右トレーナーがリングに飛び込んで試合を止めさせようとするが、エディ・タウンゼント・トレーナーと金平マネージャーがそれを阻止しようと、揉み合いを演じたのだ。対する青コーナー下でも「右のショートを出せ」と指示するマチャード氏と「まだ早い。もう少し待て」というケッチャム氏の両マネージャーがもの凄い剣幕で怒鳴りあい、口喧嘩の真っ最中だった。
リング下での喧騒をよそに、リング上ではゴメスが2度のダウンを追加してKO勝ちを収めた。西城は3年間守ってきたタイトルを失った。本来のアウト・ボクシングが出来なくとも、3Rには驚異的な猛反撃を見せるなど、ファイティング・スピリッツ溢れるファイトで壮絶に散ったのも西城らしかった。
西城はフットワークを使いたくとも使えなかった。成長期にあった若い王者には、常に減量という敵がつきまとっていたのだ。過酷な減量は体を蝕み、膝を傷めるなどフェザー級では限界だった。3年前、ロサンゼルスの地で強打のチャンピオン、ラウル・ロハスを相手に見せた華麗なフットワークと切れ味鋭いワンツー攻撃、スピード感溢れるアウトボクシングは西城一世一代の傑作だった。あのパフォーマンスは“シンデレラ・ボーイ”西城にかけられた一夜限りの魔法だったのかもしれない。
■70年代の名勝負 Vol.2 (2001年4月3日更新)
▼WBA世界Jウェルター級タイトルマッチ (1976年3月6日)
挑戦者・ウィルフレド・ベニテス 15R判定 WBA王者・アントニオ・セルバンテス
1976年3月6日に行なわれたWBA世界Jウェルター級タイトルマッチの結果には2度、驚かされたものだ。1つ目は“戦うチャンピオン”と称され、10度の防衛を誇る名王者アントニオ・セルバンテスが敗れたこと。そして、もう1つは新王者のウィルフレド・ベニテスが弱冠17歳6ヶ月の高校生だったことである。これは元世界フェザー級王者エイブ・アッテルの持つ17歳8ヶ月の史上最年少記録を、実に75年ぶりに塗り替える快挙でもあった。
王者のセルバンテスは70年代屈指の名王者で、パウンド・フォー・パウンドのNO.1の声も挙がった強豪。地元プエルトリコのサンファンに王者を迎え入れた17歳の挑戦者は、3−1という圧倒的不利の予想の中でリングに上がった。
前半は、チャンピオンが鋭い左ジャブで主導権を握るが、若い挑戦者も左ジャブ、右クロスで良く反撃。9Rにセルバンテスはボディ攻撃で挑戦者を猛攻。だが、良く耐えたベニテスは逆に左フックでチャンピオンをグラつかせる決定的シーンを作った。14回にもベニテスは左フックでセルバンテスをロープ際まで飛ばすこの試合のベスト・ショットを放つ。判定が微妙になった最終ラウンドはセルバンテスが必死に攻撃に出るが、ベニテスも積極的に手を出して応戦し、試合終了のゴングが鳴った。判定は2−1のスプリット・デシジョンとなり、147−145、148−144で2人がベニテス、残る1人が147−145でセルバンテスだった。AP通信(参考)は147−145でセルバンテスと、接戦を物語っていた。
パナマ人のイサク・エレラ主審がベニテスの手を挙げると無数のファンがリングに殺到、イラム・ビスロン・スタジアムを埋めた1万7千人の大観衆はニューヒーロー誕生に喜びを爆発させた。
父親のグレゴリオ“ゴーヨ”ベニテスは自ら果たせなかったボクサーになる夢を4人の息子に託し、その中で頭角を現したのが末息子のウィルフレドだった。ゴーヨの英才教育を受け、7歳で初試合を行ない、アマで123勝6敗の好成績を上げて15歳でプロに転向。チャンピオンになるまで、ゴーヨはウィルフレドにとって絶対の存在でもあった。しかし、チャンピオンになってから慢心を抱いたウィルフレドはゴーヨへの造反を繰り返した。セルバンテスとのリターンマッチが決定しながら、ウィルフレドはガールフレンドとドライブ中に大事故を起こして試合をキャンセル、タイトルも剥奪されてしまった。天才肌のウィルフレドは大の練習嫌いで知られ、一度ついた怠け癖は直らず、78年8月のシールズ戦の前にはガールフレンドと遊び回って失踪騒ぎまで起こした。
ゴーヨはマネージメント権をジム・ジェイコブスに売り、トレーナーにカス・ダマトをつけるが、ダマトは「自分の手には負えない」と間もなく手を引いてしまう。その後、パロミノ戦時にはエミール・グリフィスがトレーナーについた。ウェルター級王座の初防衛戦ではハロルド・ウェストンに大苦戦。ラジオを聞いていた父グレゴリオが会場に駆けつけ、9R終了後にリングサイドに着くや否やコーナーに上がって、息子にいきなり平手打ちを数発喰らわせた。思わぬ”気付け薬”にウィルフレドは勢いを盛り返して逆転の判定勝ち。以来ゴーヨは再びウィルフレドのチーフ・トレーナーに返り咲いた。だが、昔の絶対服従の息子はそこには無く、反抗的なウィルフレドにゴーヨはやがてさじを投げてしまう。「ウィルフレドが本当にトレーニングをマジメに長くやったのは、セルバンテスに挑戦した時だけだった」とゴーヨは言う。
昔から「親子でボクサーとトレーナーの関係にあると、必ず息子の反乱が起きる」と言われている。今をときめくロイ・ジョーンズ、フロイド・メイウェザー親子然り、ベニテス親子もまた例外ではなかった。17歳という若さで栄光を手にしたベニテスは、より悪い方向へと拍車を加えてしまったように思える。しかしながら、史上最年少世界王座、3階級制覇などの大記録を樹立したベニテスの名は「早熟の天才」としてボクシング史に残っている。
■70年代の名勝負 Vol.1 (2001年1月5日更新)
▼WBC世界フライ級タイトルマッチ (1979年12月16日)
WBC王者・朴賛希 KO2R 前WBA王者・グティ・エスパダス
サッカーの試合ではホームの有利とアウェイの不利が勝率という数字ではっきり表れている。ボクシングにおいてもホーム(地元)とアウェイ(敵地)の違いは確かにある。いわゆるホームタウン・デジションは地元観衆の声援に影響されることが多いようだ。戦う選手の技量に圧倒的な差があれば全く関係のない地の利も、互角か僅かの差であれば時にはとんでもない試合を生み出す原動力にもなる。
70年代も終えんとする79年12月、韓国・ソウルで行なわれたWBC世界フライ級タイトルマッチは文字通り“熱狂”という異常空間が生んだ大逆転劇だった。
チャンピオンの朴は韓国では絶大な人気を誇るファイター。元トップアマで125勝2敗の戦績を残す。この内の1敗はモントリオール五輪で金メダルのエルナンデス(キューバ)に敗れたもの。77年にプロ転向、11戦目(78年3月)で名王者カントから判定でタイトルを奪った。初防衛戦でリキ五十嵐を退け、2度目の防衛戦では引分けながらもカントにダウンを与えている。今回が3度目の防衛戦だった。
指名挑戦者のエスパダスは元WBA世界フライ級チャンピオン。76年10月、アルフォンソ・ロペスにポイントをリードされながら13R逆転KO勝ちを収め王座に就いた。以後、持ち前のパワーとエネルギッシュなボクシングで4人のチャレンジャーを悉くKOで退け、対立王者のカントと比肩される程の存在となった。しかし、5度目の防衛戦でベテラン、ベツリオ・ゴンザレスにまさかの判定負け。今回が1年4ヶ月ぶりの王座復帰を懸けた1戦。
チャンピオンの朴には未知数な面があった。高田、触沢戦でエスパダスの強打を目の当たりにした私は童顔の元王者が王座復帰を果たすだろうと予想していた。
1979年12月16日、韓国・釜山。王者の朴は東亜大学入学以来、釜山に住んでおり、まさに地元での1戦。1万人の熱狂的なファンが見守る中、試合開始のゴングが鳴った。
エスパダスはいかにも重そうな左右フックで迫ると、朴も素早いジャブで応戦。朴が左に回り込んだところにエスパダスの左フックがタイミング良くヒットして、王者が早くもダウン。8カウントで立ち上がった朴は、KOを狙いラッシュするエスパダスに鋭いワンツーで応戦、激しい打ち合いとなった。朴のパンチが当たるたびに場内はもの凄い大喚声が上がる。耳をつんざくとはこのことかという程の大音量に、地響きまで聞こえてくるようだ。大喚声に後押しされたかのように朴の右フックが決まると、今度はエスパダスがダウン。すぐに立ち上がったエスパダスはパワフルな左右フックで反撃。朴も力強いワンツーで一歩も引かない。場内のボルテージも一段とヒートアップしたところで、朴の右から左の返しがものの見事に決まり、エスパダスは2度目のダウン。このダウンは効いた。試合再開直後の終了ゴングに救われたエスパダスだが、コーナーに戻る足取りは心許ない。
「パク・チャンヒ!」の大合唱の中、第2R開始のゴングが鳴った。いきなり激しい打ち合いとなり、場内は異常な熱気に包まれた。まるで集団催眠にかかったかのように熱狂する異常空間で、実際に戦っている2人の心理状態とは如何なるものなのだろうか。
エスパダスは相変わらずパワーのある左右を振るってくるが、朴の右ストレートと左フックがたびたびヒットする。最後は強烈な右がエスパダスのアゴを捉え、更に左フックをフォローすると、強打の元王者は前のめりにダウン。からくも立ち上がったエスパダスだったが、レフェリーは試合をストップ。朴の勝利がコールされると会場の興奮はピークに達した。
ボクシングマガジンでは2Rに2度倒したと記載されているが、これは1度の誤り。
何度見直しても鳥肌の立ってくる凄い試合だった。観衆の熱気が選手に伝わる。それを巧く活かせば100%以上の能力を発揮する事も出来る。そう感じさせてくれた1戦だった。
<年代別>
■1970年 ■1971年 ■1972年 ■1973年 ■1974年 ■1975年 ■1976年
■1977年 ■1978年 ■1979年
<階級別>
■フライ級 ■バンタム級 ■フェザー級 ■ライト級 ■ウェルター級 ■ミドル級
■Lヘビー級 ■ヘビー級
■70年代の名勝負 ■70年代「リング」誌最優秀ボクサー ■トップページ
|
|