▼ オールタイムランキング 【フライ級】
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Fly weight
▼フライ級ベスト10

 1位   パスカル・ペレス
 2位   ジミー・ワイルド
 3位   ミゲール・カント 
 4位   勇利アルバチャコフ
 5位   リカルド・ロペス
 6位   具志堅用高 
 7位   パンチョ・ビラ
 8位   マーク・ジョンソン
 9位   海老原博幸
10位   大場政夫



「もしペレスとカントが戦ったら?」
時代を超えたヒーローの対決はボクシング・ファンの想像を掻き立ててくれる。
ボクシングは技術、戦術と時代とともに進化し、ルールも変化してきている。だから各世代のヒーローを比較するのは非常に困難な作業だ。

ここでは「その時代においてどれだけ傑出していたか」という偏差値的基準を元に、独断と偏見でベスト10を選んでみた。





■1位 パスカル・ペレス

ペレスに関する映像は矢尾板戦のダイジェストを見ただけなので、判断を下すのは難しい。しかし、その実績と伝説だけで十分に最強の名に値すると思う。ペレスは身長149センチ、現在ならストロー級でも戦えそうな小柄ながら、スケールの大きなボクシングで9度のタイトル防衛に成功した。「小さな巨人」とはまさにペレスのためにある言葉だろう。

18歳でアマチュアのリングに立ち、1948年のオリンピック・ロンドン大会で金メダルを獲得。その後も父親の反対などもあり、アマに留まった為、プロ転向は26歳と遅かった。プロ転向後はいきなりの18連続KOを含む22連勝(21KO)の快進撃を続け、54年7月、世界チャンピオンの白井義男をブエノスアイレスに招き、ノンタイトルを戦い引き分ける。そして11月26日、後楽園球場で行われたタイトルマッチで文句の無い判定勝ちを収め、アルゼンチン初の世界チャンピオンとなった。

タイトルを手にした後のロペスは史上最強と呼ばれるのに相応しい快進撃を続ける。白井を5R、KOに下したのを皮切りに9度のタイトル防衛に成功。ノンタイトル戦は実に22戦(21勝1敗)をこなし、うち6度は両者リミット内ということでリング誌では防衛戦とみなされている。これに従えば実質15度の防衛となり、防衛回数でもカントを凌ぐことになるのだが。

全盛期には時の政権ペロン大統領に寵愛されたペレスだが、ペロンの失脚とともに人気も落ち、ついにはスパイ容疑で国外追放の憂き目を見る。辣腕家コシイ・マネージャーの奸計もあって、日本での評判は芳しくなかった。キングピッチに敗れてからは老体にムチ打って中南米のリングに上がり続けた。64年に引退後は酒に溺れ、77年7月、肝機能障害で死去した。享年50歳の若さだった。

90戦83勝(56KO)7敗1分。


■2位 ジミー・ワイルド

故ナット・フライシャーが最強に推すジミー・ワイルドは、フライ級の初代王者である。フライシャーのオールタイム・ランクはとかく懐古主義と批判を浴びるが、数多くの伝説がワイルド最強説を裏付けている。
ワイルドはウェイト構わず誰とでも対戦し、時にはウェルター級の選手をもKOしたという。彼が活躍した当時、フライ級のリミットは108ポンドで現在のLフライ級に相当する。一説によるとフライ級はワイルドのためにわざわざ新設されたとも言われているほどである。

”マイティ・アトム”の異名をとるワイルドはデビュー後、丸4年で88連勝の快記録をマーク。1916年12月18日、ロンドンで米国代表のヤング・ズール・キッドを11R、KOに下し初代フライ級の王座に就いた。これにより、それまでシド・スミス、ビル・ラドベリー、パーシー・ジョーンズ、ジョー・シモンズらが主張していた自称世界チャンピオンの時代は幕を閉じる。

ワイルドはタイトルを手にしたまま渡米し10試合ほど戦って全勝。”小さな巨人”の洗練されたテクニックに当時のアメリカンは驚嘆したという。ワイルドは公式の防衛戦は行なわず1921年1月、前世界バンタム級チャンピオンのピート・ハーマンに17R、KOで敗れ、伝説は事実上の終わりをみた。1923年6月18日にはパンチョ・ビラに七R、KOで惨敗を喫してベルトを手放したが、この時既に引退同様の状態だったと言われる。

126勝77KO4敗2分8ND。

■3位 ミゲール・カント

「リングの大学教授」カントは近代ボクシングが生んだグレートの1人である。155センチの小柄な体格ながら卓越したディフェンス技術で14度防衛のフライ級レコードを作った。
テクニックに裏打ちされた多彩な左ブローが、彼のボクシングの生命線だ。反面、右の打ち方が悪く決定打に欠けた。「負けないボクシング」という点で最高のボクサーといっていいかもしれない。しかし、敢えて「強さ」という視点でペレス、ワイルドの下にランクした。

1975年1月8日、2度目の世界挑戦で小熊を際どい判定で破ってから、カントは本領を発揮した。とりわけ触沢を完璧にシャットアウトした試合は、彼のベストファイトの一つだろう。右の決定打に欠けたカントは、サウスポーの小熊には苦戦を強いられた。だがこの時、我々はカントによって「下がりながらのジャブ」が決して”逃げ”ではなく、ポイントになることを認識させられたのである。

1979年3月、31歳になったカントは朴にタイトルを明け渡し、再戦でも引き分けて引退。故郷メリダでホテル経営をするが、失敗して現役復帰をする。しかし3連続KO負けするなどかつてのテクニシャンも寄る年波には勝てなかった。

75戦61勝(15KO)9敗4分。

■4位 勇利アルバチャコフ

抜群のタイミングで放たれる右ストレートは、日本のリングに一大センセーションを巻き起こした。ユーリは自らのスタイルにこだわり、極めることで世界の頂点に立った。必殺の右は、たとえ空振りであっても溜息が出るほどの”凄み”があった。

89年、モスクワで行なわれたアマ世界選手権でユーリは不動の世界王者ペドロ・レイジェスを破って優勝。一躍注目を浴び、「ペレストロイカ軍団」の一員として来日した。
1990年2月1日、衝撃的な3R、KOでデビューを果たしたユーリは、元IBFフライ級王者ローランド・ボホールらを豪快に倒し続け、1992年6月、WBCフライ級王者ムアンチャイ・キティカセムへの挑戦が実現。第1R終了間際に右でダウンを奪うが(ゴング後に倒れた為、ノーカウント)、3Rにムアンチャイのいきなりの右を浴びて不覚のダウンを喫する。立ち上がったユーリは左のロングフックでダウンを奪い返し、8Rに必殺の右で粘るムアンチャイに止めを刺した。両者ともに持ち味を出し尽くしての熱戦で、フライ級の歴史に残る名勝負だった。

1997年11月、暫定王者のチャッチャイ・ダッジボーイジムに敗れるまで9度のタイトル防衛に成功。ミスター・ノープロブレム、クールな倒し屋だった。

24戦23勝(16KO)1敗。

■5位 リカルド・ロペス

フライ級以下の選手をどう評価するか、難しいところだ。フライ級の体格であったと仮定するパウンド・フォー・パウンド的な視点も考慮すべきだろう。そうでないと体格差で不利が生じるからだ。
近代ボクシング史上、最も完成されたボクサーと言われるロペスはパウンド・フォー・パウンドでは上位にランクされてもおかしくはない。しかし、ストロー級という対戦者の質という点で上位4人に劣る。ペレスに至ってはストロー級の体格で、あれだけの実績をあげたのだから別格と言っていいだろう。

1990年10月25日、大橋秀行を5R、TKOに下しWBCストロー級タイトルを手にしたロペスは、約8年間で実に22度の防衛に成功した。これは前階級を通してもルイスの25度に次ぐ大記録である。

1998年、ロセンド・アルバレスとの再戦を制したロペスは翌1999年10月、ウィル・グリズビーを判定に下し、IBF・Jフライ級タイトルを奪取。2階級制覇に成功した。タバナスを倒した変則的なアッパー、朴を鮮やかに斬ってとった左フック等、ロペスにはしばしば驚嘆させられたものだ。これほど「芸術」を感じさせるボクサーはいないだろう。

49戦48勝(35KO)1分。

■6位 具志堅用高

具志堅の世界デビューは衝撃的だった。21勝(18KO)1敗。Jフライ級で抜群のKO率を誇るドミニカの強打者、ファン・グスマンは”小型フォアマン”と言われ、前評判は高かった。デビュー僅か9戦目の具志堅に勝ち目はない、と誰もが思った。
そうして迎えた1971年10月10日、信じられないシーンが展開された。具志堅が鮮やかなKOで、グスマンを斬って落としたのだ。パンチの切れ、タイミング、そしてチャンスでの鋭い詰め、どれをとっても文句のつけようがないパーフェクトな勝利だった。

世界挑戦の切符を手にしたゴメス・キー、7度防衛の日本新記録のかかったマルカーノ、12度防衛のJフライ級記録に挑んだバルガス戦と、節目の試合ごとに具志堅はベストパフォーマンスを披露した。
「最強の挑戦者」バルガスを完膚泣きまでに叩きのめしてJフライ級レコードを樹立した具志堅は、モチベーションの低下と体力の衰えなどでフローレスとの再戦に初のKO負けを喫した。13度の防衛戦はそれほど消耗度が激しかったのだ。
張正九(15度防衛)、柳明佑(17度防衛)に記録は抜かれたが、Jフライ級最強は具志堅であったと私は今でも信じている。

24戦23勝(15KO)1敗。

■7位 パンチョ・ビラ

東洋人初の世界王者がこのパンチョ・ビラである。本名はフランシスコ・ギレド。当時のメキシコの有名な盗賊にあやかって「ビラ」を名のった。

18歳でデビューしたビラは、1922年に渡米して強豪を相手に頭角をあらわす。1992年にはジョニー・バフを破り、全米フライ級タイトルを獲得した。このタイトルはフランキー・ジェナロに明け渡すが、1923年6月、ジミー・ワイルドに挑戦。7R、KOで念願のタイトルを手にした。KO負けしたワイルドは、昏睡状態で病院にかつぎ込まれるほどのダメージを負った。

タイトルを4度防衛し、順風満帆のビラに突然の悲劇が訪れる。1925年7月、後のウェルター級世界王者ジミー・マクラーニンにノンタイトルで10R判定負け。その10日後にタイトルを保持したまま敗血症の為、死亡した。親知らずを抜歯した際の炎症から、毒が体全体に回ったのが原因だった。ビラの遺体は故国に運ばれ、10万人を越すファンがフィリピンの英雄の死を悼んだという。1916年には殿堂入りも果たしている。

73勝(22KO)5敗4分23ND。

■8位 マーク・ジョンソン

長らく東洋と中南米で独占されてきた軽量級にも、パワーボクシングの旋風が吹き込んだ。その筆頭がカルバハルとするなら、ジョンソンはパワー革命の有効性を実証した功労者と言えるだろう。トゥシャープ"の異名通り、スピーディなブローは切れ味抜群で、軽量級離れした迫力満点のボクシングは魅力だった。

ミズーリ州セントルイス出身のマーセラス・ジョセフ・ジョンソンは兄の影響で、8歳の頃からリングに上がり、1989年には全米ライトフライ級王者になった。翌1990年にプロ転向。2戦目に初黒星を喫したが、以降は連勝を続け元WBO王者のアルベルト・ヒメネス、ホセ・キリノ、ホスエ・カマチョらを下し、頭角をあらわす。

1996年5月、IBFフライ級王座決定戦で古豪Fテヘドールを初回KOに下し、世間をあっと言わせた。1998年9月、Jラウレアーノに6R終了TKO勝ちで、7度目の防衛に成功した後、タイトルを返上。1999年4月、ラタナチャイとの決定戦に勝って、IBF・Sフライのタイトルを獲得、2階級制覇に成功した。
このタイトルを2度防衛した後、1999年10月に夫婦喧嘩で妻を暴行、顎の骨を割る重症を負わせた事件が発覚。95年にもコカインの不法所持で有罪判決を受けていたが、今回はマリファナも発見されて1年の禁固刑に処せられた。タイトルも剥奪され、ジョンソンの時代は意外な形で幕を閉じた。

39戦38勝(26KO)1敗。

■9位 海老原博幸

ハードパンチャーが故の拳の骨折。7度もの骨折に泣かされた海老原ほど、この宿命に翻弄された者はいないだろう。”カミソリ”と形容された左ストレートはしばしば芸術的なKOシーンを演出した。ポーンを僅か1R、トーレスを7RにKOした試合は世界中に衝撃を与えたものだ。

「とんかつ屋」を営んでいた故金平正紀に見出された海老原は、期待通りにデビューから9連勝(4KO)を記録。東日本新人王決勝でファイティング原田に敗れたが、その後も世界ランカーのレイ・ペレズを8R、KOに破るなど連勝を続け、1963年9月にポーンに挑んだ。左ストレートを顎に直撃された王者は、1R終了のゴングを聞くことなくリング上に長々と伸びてしまった。
リターンマッチで、ポーンにタイトルを奪回された後、1966,67年と2度、敵地アルゼンチンでオラシオ・アカバロの持つWBAフライ級タイトルに挑戦するが失敗。2試合とも拳の骨折によるアクシデントが響いた。しかし、いずれも接戦で海老原が勝っていたという声が強かった。

1969年3月、ホセ・セベリノとのWBAフライ級王座決定戦に勝って5年ぶりの復帰を果たすが、初防衛戦でビラカンポに敗れる。この時は左右の拳を骨折、とても戦える状態になく、この試合を最後に引退した。

76戦62勝(33KO)5敗1分8EX。

■10位 大場政夫

“永遠のチャンピオン” 大場政夫がリングに刻み込んだ記憶は、鮮烈だった。”黒い弾丸”アモレス、”稲妻小僧” チャチャイとの倒し倒されの激闘は、ボクシング史に永遠に語り継がれるだろう。

大場が初めて注目を浴びたのは1969年3月、当時の日本フライ級王者、スピーディ早瀬をノンタイトルで破った時だ。フルマークの快勝だった。ここから大場の快進撃が始まった。2ヵ月後には元王者の松本芳明に4Rのダウンを挽回して判定勝ち。この試合が逆転ファイトの”原点”とも言えるだろう。そして東洋王者の中村、世界王者のビラカンポをいずれもノンタイトルで撃破し、世界1位に躍進した。

1970年10月22日、ビラカンポを判定に下し新チャンピオンとなったチャルバンチャイに挑み、13R、王者を滅多打ちにしてタイトルを手にした。
王座に就いてからはゴンザレス、花形、チャチャイなど後の世界王者3人を含め、「最強の挑戦者」ばかりを相手に5度の防衛に成功した。ノンタイトルでもスイス王者チェルベット、メキシコ王者ガルシア、世界10位のトニー・モレノら強豪を連破している。中でも米国遠征でガルシアを9R逆転KOした試合は「大場伝説」の序章として痛烈な印象を与えた。
1973年1月25日、大場は首都高速に散った。享年23歳。あまりにも早すぎる死だった。

38戦35勝(16KO)2敗1分。



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