▼ コラム 【Column】
■ファメションVS原田 ■モンソンとベンベヌチ ■中量級で世界に挑んだ日本選手 
■西島洋介山とパワフル本望問題
 ■替え玉事件 ■ルビン・“ハリケーン”・カーター 
■囚人ボクサー、スコット
 ■コラム番外編〜掲示板からの再録集 ■日本人同士の世界戦 
■映画「ザ・ハリケーン」 ■トップページ


■ファメションVS原田
 (2002年5月15日UP)

ちょっと前に掲示板で話題になったファメションVS原田第1戦のビデオが手に入ったので、問題の試合を振り返ってみたいと思います。

1969年7月28日、豪州シドニー・スタジアム。F原田は3階級制覇を賭けて、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメションに挑戦。

1R、原田はいつものように積極的に手を出して王者に迫る。ファメションはフットワークを使い、左ジャブで応戦。このラウンドはともにクリーンヒットがなく、ほぼ互角の展開。2R、原田の右クロスが当たり、ファメションがダウン。3、4Rも原田が攻勢。

5R、原田が突っ込みバランスを崩したところにファメションの左フックがヒットして、原田がダウンを取られる。勢い付いたファメションは左ジャブをよく当て、アウトボクシングで6、7Rを連取。8Rは原田が右ストレートをヒットして反撃。

9、10Rと一進一退のラウンドが続いた後、11Rに原田がボディ連打から右を決めて痛烈なダウンを奪った。ファメションもよく持ち直し、12、13Rは左ジャブから右ストレートを決めてポイントを奪い返した。

そして14R、三たび原田の右が炸裂し、ファメションはもんどりうってダウン。これは効いた。レフェリーのペップはダメージの深い王者を両手で支え、助け起こすようにして再開を促すと、数秒後にラウンド終了のゴング。ゴングに救われたファメションだったが、ダメージは明らかで、最終ラウンドはクリンチでダウンを免れるのがやっとだった。

試合終了のゴングが鳴ると、ペップはいきなり両者の手を挙げ、引分けを宣した。豪州のローカル・ルールでレフェリー1人で採点が行われたが、最終ラウンドのスコアをメモする前の不可解なドロー宣言で、観客からもブーイングが巻き起こった。

TV放映はドローのまま終了したが、後に集計ミスが発覚して、ファメションの判定勝ちに訂正された。当時のプロレス&ボクシング誌によると、「一度リングを降りて控え室に帰りかけたファメションがリング上に連れ戻され、『70−69でファメションがタイトルを防衛しました』とリング・アナウンサーが紹介すると、場内からは喜びの声よりも、不満の怒号が一際高く巻き起こり、ファメションはリング上で顔をこわばらせ、恥ずかしそうに両手を挙げるだけだった」という。

ペップの採点ではダウンのあった2,5,11,14Rはいずれも5−4だった。これを5−3に直すと2ポイント差で原田の勝ち。私の採点では4ポイント差。少なくとも、ダウンの数(差し引き2度)だけは勝っていた試合だった。

引分けを宣告され、リング上で挨拶する原田に、君がチャンピオンだと叫んでいるような大歓声と拍手が起こり、しばらく鳴り止まなかったという。

(2002年5月7日、BBSに投稿したものを再録しました。)




■モンソンとベンベヌチ (2002年3月6日UP)

1970年11月7日、世界ミドル級王者ニノ・ベンベヌチはアルゼンチンからやって来た1位挑戦者カルロス・モンソンを地元ローマに迎え、5度目の防衛戦に臨んだが、挑戦者の強打の前にショッキングな12RKO負けで王座を失った。翌71年5月9日、モンテカルロで行われたリターンマッチは更に悲惨なものだった。3Rにモンソンの右強打から左右フックでダウンを喫した前王者のベンベヌチはロープにもたれ、両手両膝をついたまま立ち上がれず、タオル投入のTKO負け。ベンベヌチはこの試合を最後に引退した。

モンソンはその後、バルデスとの王座統一戦を含む14度の防衛に成功、77年7月、バルデスとの再戦に判定勝ちした後、「もうリングの中で証明するものは何もない」と、不敗のまま颯爽とリングを去った。

モンソンとベンベヌチはリング外でも映画に出演するなど、ともに華やかな私生活でも知られる当代きってのスターボクサーだった。その後、この2人が全く好対照の第2の人生を歩むことになろうとは誰が予測出来ただろうか。

1989年7月、モンソンはかつての愛人マリシア・ムニス殺人の罪で懲役11年の判決を下される。そして、1991年5月、サンタフェ刑務所に服役する元チャンピオンの元に、イタリアの花形ジャーナリストとして活躍する傍ら、イタリア・ボクシング機構の宣伝担当を務める一人の男が面会にやってきた。かつてモンソンによってタイトルを奪われたニノ・ベンベヌチである。

テープ録音もメモも写真を撮ることも許されなかったが、ベンベヌチはリング誌記者に2人の会見の模様を語っている。「モンソンはとてもしっかりしていて元気だった。1989年12月に話した時は全く正気ではなかった。しかし、今は神と正義を信じ、別人のようだった。彼は未来に目を向けることが、いかに重要かをわかっている。我々は過去のことについては一切触れなかった。重要なのは希望を持って生きていくこと。我々はまだ若いのだから」

モンソンが外出を終えて刑務所へ戻る途中、自ら運転する車の事故によって亡くなったのは、それから4年後の95年1月だった。享年52歳、若過ぎる死だった。合掌。

(2002年2月26日、BBSに投稿したものを再録しました。)




■中量級で世界に挑んだ日本選手 (2002年3月6日UP)

今から20年程前までは日本選手が海外で世界に挑むことも珍しくはなかった。最近見たビデオの中で、日本を代表する2人の中量級ボクサーが、本場米国で世界に挑んだ試合を振り返ってみました。

■WBA世界Jウェルター級タイトルマッチ
WBA王者・アーロン・プライアー TKO6R WBA1位・亀田昭雄

亀田が辻本を6RKOに下し、鮮やかに日本タイトルを奪取した試合は印象的だった。一躍日本のホープに踊り出た亀田は82年7月4日、シンシナティのリングで世界に挑戦。1階級下げたJウェルター級での世界初挑戦だった。
王者のアーロン・プライアーは名王者、セルバンテスを4RKOに下した後、4度の防衛戦を全てKOで飾るなど、まさに絶頂期。"シンシナティの荒鷲""ビースト"とも言われたプライアーはその名の通りエネルッギシュで荒々しいファイトが身上のファイター。身長で大きく上回る亀田は距離を取って戦いたいところだ。

初回、ゴングとともに勢いよく攻め込む王者に挑戦者の亀田も積極的に応戦。そして、亀田の左ストレートが見事に決まると、プライアーが早くもダウン。バランスを崩したところへタイミング良く決まったパンチで、プライアーは後方に1回転して倒れた。素早く跳ね起きたものの、カウント8を取られる。

2R以降はプライアー得意の乱戦となり、強烈な右ストレートで亀田からダウンを奪い返し、ラウンド終了間際にも連打で2度目のダウンを奪った。続く3Rにもプライアーは右ストレートでグラつかせた後、連打で3度目のダウンを奪う。ラウンド終了のゴングに救われた亀田は4R,5Rとプライアーの猛攻をよく凌いだ。しかし、無尽蔵のスタミナで攻めまくるプライアーは6Rゴングとともにラッシュ、右の連打で亀田はしゃがみ込んで4度目のダウン。さらにダウンを追加され、プライアーが攻め込んだところでレフェリーが試合をストップ。
結果的に両者の力量、キャリアの差が出た試合だったが、ダウンを奪った1Rは亀田が打ち勝ち、資質の片鱗を見せている。

84年亀田はOPBFタイトルマッチで金応植に2度敗れた後、IBFに転向。86年にはIBF世界Jウェルター級王者・テリー・マーシュにも挑んだが、6RTKO負けで引退。初挑戦は王者が強過ぎた上にキャリア不足、2度目はピークを過ぎての挑戦だった。中量級の厚い壁に跳ね返された亀田だが、私は世界王者になる資質を充分に兼ね備えた天才ボクサーだったと今でも思っている。

■WBA世界ウェルター級タイトルマッチ
WBA王者・マーロン・スターリング 12R判定 WBA8位・尾崎富士雄

ミニマム級からミドル級まで、日本選手が唯一世界王座に届かないウェルター級の厚い壁。76年、日本で行なわれた初めての世界ウェルター級タイトルマッチで辻本章次は善戦空しく、クエバスの強打に6RKO負け。78年、ラスベガスでパロミノに挑んだ龍反町も王者の左フックで7Rに沈んだ。そして、反町の敗戦から10年ぶりにウェルター級タイトルに挑戦したのが尾崎富士男だった。

88年2月5日、アトランティックシティ。王者はマーク・ブリーランドを番狂わせの11RTKOで破ったマーロン・スターリング。下馬評は王者が圧倒的に有利で、日本のファン、関係者の間でも尾崎の勝利を予想する者は皆無に近かった。

海外で世界初挑戦となった尾崎は本場の王者を相手に互角の打ち合いを展開。4R、6Rには有効なボディブローを決め、ひたすら王者に迫った。スターリングは左リードから左フック、右ストレートで攻め立てるが、尾崎は一歩も引かず、ワンツー、ボディブローで応戦。終盤、スターリングは足を使ったアウトボクシングに戦法を切り替える。10R,12Rと攻勢に出た尾崎は右ストレートを決め、王者を防戦一方に追い込んだ。尾崎の予想外の善戦が光った試合だった。
オフィシャルの採点は117−112,118−110,117−114でスターリング。会場からはブーイングが起きたが、この日TV解説を務めたジャッジのハロルド・リーダーマンが2ポイント差で尾崎の勝ちとするなど、採点ほどの差はない拮抗した内容の試合だった。

その後、尾崎は王座に返り咲いたブリーランドに挑戦したが、無念の4R負傷TKO負け。90年代はテーラー、ブラウン、ウィテカー、クォーティ、トリニダード、デラホーヤらが王座に君臨。ウェルター級王座に挑む日本選手は久しく出ていない。尾崎がウェルター級の王座に限りなく近付いたアトランタでの戦いは忘れられない一戦となった。

(2002年2月15日、BBSに投稿したものを再録しました。)




■西島洋介山とパワフル本望問題 (2001年8月23日UP)

パワフル本望選手の移籍問題がボクシング界に波紋を投げかけている。オサムジム所属のパワフル本望選手ら3人がジムの待遇に不満を抱き、移籍を希望。これに対し、オサムジム側は感情面のもつれもあって拒否の姿勢を貫いている。7月にはコミッションで小島茂氏立ち会いのもと、話し合いが行われたが両者の主張は平行線を辿ったままだ。


オサムジムでは3年前にWBFクルーザー級王者(OPBFは剥奪)の西島洋介山がジムを飛び出し、単身米国へと渡って今回同様揉めたケースがある。
西島選手のケースではジムとJBCに引退届を提出。1998年度のライセンスを更新しないまま渡米し、カリフォルニア州のライセンスを取得して試合を行なったことから問題が発生した。オサムジム側は3年ごとに更新されるマネージメント権を主張、日本ボクシングコミッション(以下JBC)も「オサムジム・渡辺会長との契約問題が解決しない限り、米国での試合を許可しない」との見解を打ち出していた。これを無視して西島選手は98年3月、ロスで試合を強行(WBF王者としてノンタイトル10回戦を行い、判定勝ち)した為、JBCから無期限のJBCライセンスの停止、事実上の追放処分という重い断が下された。
これに対し、カリフォルニア州コミッションはオサムジム側の主張するマネジャー契約の自動更新は認められないとし、「契約は既に期限が過ぎており、無効である」という通知をJBCに送っている。

専門家の見方ではオサムジムとJBCが主張するマネージャー契約には法的根拠はないという。仮に3年ごとの自動更新を認めても、正式な契約書がない場合はボクサーからの解約は法的に有効とのことだ。(西島選手は契約書の新たな更新にはサインしていない)西島選手とオサムジムではそれ以前に10年契約も交わされているが、これについてはJBCルールで契約期間は3年までとなっている為、全く有効性はない。

西島戦選手の場合、JBC未公認のWBF王座を返上しなければ国内で試合を出来ないという事情もあって海外脱出という直接行動に出たのだが、これがJBCの反感を買ってしまったようだ。WBFタイトルについてはJBCの勧告に従い、オサム会長が西島選手に無断で返上を申し出てこじれた経緯もあった。
西島選手は米国で5連勝。ケガなどもあって2年間のブランクを作っていたが、年内の復帰を目指し、現在ロスでトレーニングを再開している。

日本のジム制度ではジム側の拘束力が強く、契約についても不透明な部分が多い。これはオサムジムだけの問題ではなく、日本ボクシング界の抱える構造的欠陥といっていいだろう。パワフル本望問題では「契約期間が切れても元のジムの承諾がないと、移籍は認められない」というJBCの見解にも疑問がもたれている。これまで業界の秩序を守るという立場で、業者寄りの裁定を出してきたJBCには選手サイドにも立った公正な判断を望みたいものだ。
契約問題については悪しき慣習の撤廃や、もっとクリーンで分りやすくするなどの思い切った改革を断行しない限り、こういったトラブルがなくなることはないだろう。

付記: 8月23日、コミッション立会いのもと、オサムジムと角海老宝石ジムの間で話し合いがもたれ、本望選手ら3選手の移籍が決定した。移籍の条件については双方の申し合わせで公表されなかった。
パワフル本望選手の移籍問題
はとりあえずの決着をみた。だが、期待された「構造改革」は何ら為されず、日本ボクシング界の後進性をまたもや証明した形となった。




■替え玉事件 (2001年8月10日UP)

ボクシング界に衝撃を与えた「替え玉事件」はJBCが7月31日、関係者の処分を発表。マッチメーカーのジョー小泉氏に「ライセンスの3ヶ月資格停止処分」、独断で替え玉を仕立てた現地仲介人に「ライセンス無期限停止処分」を科した。この裁定には実効性に疑問が持たれ、“灰色処分”とも言われたが、小泉氏とJBCの協議で「今後3ヶ月間、新規活動を全面停止。現在担当している約40試合のマッチメークも直接かかわらない」という合意で一応の決着をみたようだ。だが、JBCの裁定は疑問な点や多くの問題を残したままで、今一つすっきりとしないものであったのも確かだ。

事件が明るみに出たのは7月中旬。ボクシング関係者の指摘を受けたJBCが調査をした結果、7月2日に行われたOPBF・Sライト級タイトルマッチでチャンピオン・佐竹選手に7RKO負けした同級1位・シンチャイ選手は、別人のピチャイ選手であった事が発覚。19日付けのサンケイスポーツ他は一面スクープで事件を報道した。その後の緊急理事会で、マッチメーカー・ジョー小泉氏の「タイ現地マッチメーカーがウェイト・オーバーのシントンの代わりに、独断で体格の似たピチャイを連れてきた」という経過報告があり、31日のJBC裁定となった。

ジョー小泉氏の処分は「パスポート等の確認義務の不履行」ということで管理責任を問われたものだ。が、最終的に試合を認可したJBC自身には何ら処分が下されなかったのはおかしい。JBCが自らの責任を蔑ろにしたことで“灰色処分”の感を強くしたのも事実だろう。ピチャイには不正パスポート疑惑もあったが、結局どのような経緯で入国したのかも不明のままだ。

日本側の関与について「本当は知っていたのではないか」という疑問の声も一部で出ているようだが、これは今のところ憶測の域を出ないものだ。
「今回のニセモノ事件でおとなしく恭順の意を表するだけでは、私もタイ仲介人のグルか、と疑われ、痛くもない腹をさぐられかねない。だから、私の方針は決まっている。必要あれば、メディア、インターネットで発言し続ける。明示すべきは、(1)私も被害者であること、(2)どこまでが私の管理責任であり、どこからがタイ仲介人独自の悪行(WRONGDOING)であるか、を明示すること、(3)今後、いかなるマッチメーカーも同様な被害に遭わぬよう、システム(管理体制)を提言すること、である。」(ジョー小泉氏のひとりごとより引用)
一ボクシング・ファンの立場としては小泉氏の言葉を信じたい。

今回、日本側の甘い管理体制が明るみに出たことで、過去にも表面化しなかった替え玉事件があったのではないかという疑惑も残る。今回の事件が業界健全化のための良き警鐘となることを祈るのみだ。




■ルビン・“ハリケーン”・カーター (2001年6月5日UP)

先日、WOWOWでも放映された映画「ザ・ハリケーン」(6月10日・22日にリピート放送もあり)は、ご存知のようにルビン・ハリケーン・カーターの冤罪事件を描いた感動作である。この映画についてはこのコラムでも触れているので、今回はボクサーとしてのカーターに少し焦点を当ててみたい。

ご多分に漏れず非行少年だったカーターは10代の大半を少年院で過ごした後、61年9月24歳でプロデビュー。カーターが一躍注目を浴びたエミール・グリフィス戦はデビュー2年目の63年12月20日、鉄鋼の町ピッツバーグで行なわれた。半年前にルイス・ロドリゲスからタイトルを奪回、3度目のタイトルを手にした世界ウェルター級チャンピオンのグリフィスはミドル級進出を目論み、世界ミドル級3位にランクされているカーターとノンタイトル10回戦で対戦。(映画ではタイトルマッチのように描かれている為、論評でも元世界チャンピオンとなっているのもある)

試合は開始のゴングとともに、カーターのヘビー級ボクサーのような豪腕から放たれる力強い左右フックが容赦なくグリフィスに襲い掛かった。防戦一方のグリフィスにカーターはサンディ・パンチの左フックを決めて痛烈なダウンを奪った。更に左右フックを乱打して2度目のダウンを奪うと直後にレフェリーが試合を止め、初回133秒でカーターのTKO勝ちとなった。グリフィスにとって初のKO負け、しかも現役世界王者の初回KO負けは当時のボクシング界に大きな衝撃を与えた。

2ヵ月後の64年2月、後のWBA世界ヘビー級王者・ジミー・エリス(デビュー当初はミドル級で泣かず飛ばずだった)に判定勝ちするなど、世界1位に登りつめたカーターは同年12月14日、ジョーイ・ジアルデロの持つ世界ミドル級タイトルに挑戦。王者の地元フィラデルフィアで行なわれた1戦はカーターが好調な滑り出しを見せたが、後半にスタミナを欠いてジアルデロの反撃を許し、小差の判定(3−0)を失っている。当時のマスコミには練習不足が敗因とも書かれ、勝つときと負けるときの波が激しく、スタミナに難のあったカーターは「5ラウンズのチャンピオン」とも言われた。映画ではカーターが圧倒しながら地元判定に敗れたと描写された為、ジアルデロがクレームをつけたが、カーターも「あの試合は私の負けだった」と認めている。

その後は技巧派のルイス・ロドリゲスやディック・タイガー、ハリー・スコットに強打を空転させられるなど、勝ったり負けたりを繰り返し、やがて世界10傑からも姿を消してしまう。66年6月にパターソンで殺人事件が発生し、カーターは2ヶ月後の66年8月にロッキー・リベロに10R判定負け。この試合がラスト・ファイトとなった。生涯戦績は27勝19KO12敗1分。
同年10月、自身も容疑者であるアルフレッド・ペローの目撃証言(後に偽証と判明)により、カーターとアーティスは逮捕され、翌67年5月に3生涯分の終身刑が宣告された。獄中から無罪を訴えるカーターの22年間に及ぶ長い闘いはここに始まった。




■囚人ボクサー、スコット (2001年5月18日UP)

ヘビー級とミドル級という人気クラスに挟まれて、伝統的に地味な印象しかないLヘビー級シーンが大いに盛り上がった時期があった。1974年9月、6年間で14度防衛という長期政権を築いたボブ・フォスターが体力の限界から引退を表明すると、Lヘビー級は群雄割拠の新時代を迎え、ビクトル・ガリンデス(WBA)、ジョン・コンテ(WBC)がその後釜に納まった。ガリンデスはしぶといファイトでロスマンに敗れるまで10度の防衛に成功。コンテは地味ながらも安定した実力を誇示して英国ではアイドル的人気を誇った。

その後もエキサイティングな逆転KO男マシュー・サアド・ムハマド(フランクリン)、3度王座に就いたマービン・ジョンソン、そのジョンソンに痛烈なKO勝ちを収めたエディ・ムスタファ・ムハマド(グレゴリー)、マシューを2度に渡りKOし、引導を渡したドワイト・ムハマド・カウィ(ブラクストン)と個性派の王者が次々と誕生した。彼らが互いにグローブを交え、いずれも熱戦を展開した70年代後半から80年代初頭は、Lヘビー級シーンが最もホットな時代だった。

惜しくも世界には届かなかったが、4度の世界挑戦をはじめ当時のトップと常に激闘を展開したアルバロ・“ヤキー”・ロペスや、日本ではジェシー三迫のリングネームで戦い、本場の重量級の実力を見せつけたジェシー・バーネットらも記憶に残るボクサーだ。そして忘れてはならないのが、刑務所内のリングで戦い続けた囚人ボクサー、ジェームス・スコットである。(ふ〜、前置き長過ぎ!)

ラーウェイの州刑務所に服すスコットの罪名は武装強盗、保釈規定違反で刑期は30〜40年というものだ。スコットはジュニア・ハイ・スクール時代に長期無断欠席で鑑別所送りになって以来、ニュージャージー州のあらゆる鑑別所、刑務所を転々としてきた。その間2度釈放され、1974年の2度目の釈放の時にボクシングを始めた。保釈中のマイアミビーチ時代に10連勝(5KO)の成績を残したスコットは、刑務所に逆戻りしてからも刑務所内の体育館で戦い続け、話題を呼んだ。

1978年10月には、後の世界王者でWBAのトップ・コンテンダーだったエディ・グレゴリーに文句のない判定勝利を収める殊勲で注目を浴び、世界ランク入りを果たした。その後も元コンテンダーのリッチー・ケーテスに10RTKO勝ちするなどWBAランキング上位に進出したが、WBAは1979年10月にスコットが囚人であるという理由でランキング(2位)を剥奪。スコットは抗議の引退声明を出したが、これはすぐに撤回。12月には当時WBC1位のアルバロ・“ヤキー”・ロペスに判定勝ちしている。この試合はNBCテレビが全米に生中継するなどスコットの人気は俄然ヒートアップ。世界ランキングは奪われたが、周囲も本人も当然世界王座の夢を追っていた。

スコットは特別例外の仮釈放を請求したが、1980年1月、ニュージャージー州の最高裁控訴審はこれを却下。WBAランキングを失い、仮釈放も却下されたスコットの世界の夢は遠のいてしまった。「第2ラウンドで頑張る」と望みをかけたスコットだったが、精神的ダメージは大きかったようで、同年5月のジェリー・マーチン戦で1,2Rにダウンを奪われた末に判定で完敗、初黒星を喫してしまう。マーチンはこの勝利でグレゴリーのWBA王座挑戦のチャンスを掴み、7月に10RTKOで敗れた。スコットを破り、あっさりと世界挑戦を果たしたマーチンと、かつて自らが判定に降した現王者グレゴリーとの戦いをスコットはどんな思いで見ていたのだろうか。

最近は元チャンピオンの不祥事が相次ぎ、刑に服するボクサーも多いが、スコット以外に刑務所で戦ったという話は聞いたことがない。ラーウェイの刑務所だけ特別だったのかもしれない。今、考えると刑務所内で戦ったこと自体が奇跡といっていいだろう。マーチン戦を最後にスコットの記事が専門誌に載ることはなかった。おそらく初の敗戦がラスト・ファイトになったのだろう。ルーキー時代にはバーネットに勝ち、後の世界王者グレゴリーをはじめ、アルバロ・ロペス、リッチー・ケーテスらトップ・ボクサーをことごとく破りながらも、スコットに世界挑戦の機会は訪れなかった。しかし、記録には残らなくとも、70年代の“Uncrowned Champion”として、スコットの名はファンの記憶に残るボクサーだった。戦績は18勝(9KO)1敗1分。




■コラム番外編〜掲示板からの再録集
 (2001年3月18日UP)

■世界一のオイソガ氏ボクサー (2000年9月8日投稿)

以前ボクシングマガジンでも取り上げられたバック・スミスが35歳になった今も現役で頑張っている。ホンダのシビックを駆って全米中を飛び回り、ドサ回りや代役を厭わず戦い抜いた記録が、なんと194戦178勝(118KO)14敗1分1NC。昨年12月にはチャベスに3RKO負けを喫している。
オクラホマでは、オグラディやハルステッドのように、とんでもない試合数をこなす怪物ボクサーが時として出現するが、スミスは破格だ。まるで試合がスパーリングを兼ねているようなもの。筋金入りの"実戦派"ボクサーと言えるだろう。彼が今後スポットライトを浴びることはないかもしれないが、つい肩入れしたくなる。頑張れ、スミス!

付記: 現在、スミスは現役を退いてプロモーターに転進。豊富なリングキャリアを生かして、第2の人生での成功を祈りたい。


■パリの決戦 (2000年9月13日投稿)

今から約20年前、とある8ミリビデオの映写会を見た。まだ一般にビデオは普及されていない時代で、ボクシングのビデオといえば8ミリフィルムしかなかった。

今まで専門誌の文字や写真でしか知らなかった拳豪の姿がそこにあった。パリで激突した、2人のヒーローの闘いは私には意外な印象を残した。背が高く、リーチも長い王者が挑戦者を圧倒したのであるが、むしろ敗者の身のこなしに、より惹きつけられたものである。王者のボクシングはスピードもなく、右の一発狙いで単調に感じた。それが、私の見た初めてのモンソンだった。これがミドル級王座14度防衛、パウンド・フォー・パウンドNO.1と謳われたモンソンなのか、と正直いってガッカリしたのを覚えている。

敗者はピークをとっくに過ぎてなお、余りあるポテンシャルを感じさせてくれた。私は彼がますます好きになった。以来、"マンテキーヤ"ナポレスは私のアイドルである。

モンソンは対戦相手にも不評だった。「ヤツはたいした事なかった。」「今度やれば絶対勝てる。」「ただのウスノロだ。」一見、たいした事もないのに、それでも勝ってしまう。快楽主義で練習嫌いのモンソンがこれだけの実績を残したのは、実戦での本当の強さがあったからだろう。不思議な強さを持つボクサーだった。彼こそ近来のボクシング界が生んだ本当の天才ではないだろうか。


■ボクシング映画 (2000年9月26日投稿)

ボクシング映画が日本で初めて「活動写真」として公開されたのは1896年(明治30年)。もちろん無声映画で、弁士がスクリーンの横に立って熱弁を振るった。郡司信夫氏の「ボクシング百年」によると、日本におけるボクシングの実写の初上映はコーベット対フィシモンズの世界ヘビー級タイトル戦だったという。大正9年にはボクシングを題材にしたものではなかったが、ジョルジュ・カルパンチェ主演の「不思議の人」が公開され人気を呼んだ。

以後、数々のボクシング映画が公開されているが、貧民街の不良少年が栄光を掴むサクセス・ストーリーと、八百長の絡んだギャングの世界とを結びつけた「暗黒もの」とに大別される。前者の代表作がポール・ニューマン主演の「傷だらけの栄光」だろう。世界ミドル級王者、ロッキー・グラジアノの半生を描いたもので、海老原はこの映画を見てボクサーを志すなど、大変な人気を呼んだ。古いところではカーク・ダグラス主演の「チャンピオン」がある。これは同名の小説を映画化したもので、世界ミドル級王者、スタンレー・ケッチェルをモデルにしたものと言われている。

「暗黒もの」ではロバート・ライアン主演の「罠」が有名。落ち目のボクサーが八百長を強要されるが遂行しなかった為、残酷なリンチを受けるというストーリー。世界ヘビー級王者、プリモ・カルネラをモデルにした「殴られる男」では、ウスノロ男が片八百長で相手がわざと負けるのも知らないで栄光の座を掴むというのもあった。

「レイジング・ブル」は1980年に作られた世界ミドル級王者、ジェイク・ラモッタをモデルとした傑作。主演のロバート・デニーロはミドル級リミットの160ポンドと200ポンドを4ヶ月で行き来する離れ業を演じた。

私のお気に入りは「傷だらけの栄光」と「レイジング・ブル」の2本。他にも「ロッキー」は面白かったし、最近公開された「ザ・ハリケーン」も素晴らしかった。こうして見るとミドル級の拳雄は、ドラマチックで魅力溢れる選手が実に多いことに改めて気付かされます。


■アメリカ、金ゼロ (2000年10月1日投稿)

シドニーでアメリカの金メダルは、ついにゼロに終わった。コンピューター採点に疑問が残るのも事実だ。一長一短でどちらが良いのかは一概に言えないが、プロ向きのスタイルがアマチュアルールの壁に泣くことも多々あった。コンビネーションにしても1秒間に数発ヒットした場合、きちんとカウントされるのだろうかという疑問もある。最終ラウンドには明らかに逃げ切りを図る選手も見られた。反面、判定にある程度納得がいくという面もあるだろう。

多くのアメリカ選手にとって、オリンピックは終着点ではない。銀メダルに終わったフアレス、ウィリアムスは前評判も高く、プロを意識したスタイルで戦っていた。フライ級のホセ・ナバロはデラホーヤがマネジャー、プロモーターを務め、バンタム級でプロデビューが決まっている。さあ、プロで金メダルを射止めるのは果たして誰だ?

付記: 近年はホリィ(ロス五輪銅)、ロイ・ジョーンズ(ソウル五輪銀)、メイウェザーJr.(アトランタ五輪銅)ら、ゴールドメダル=スーパースターという図式は必ずしも成り立たなくなってきている。米国のシドニー組は殆どがプロデビューを果たした。アマの採点に泣いたフアレス、ウィリアムスはプロで屈辱を晴らして欲しいものだ。


■海外遠征 (2000年10月8日投稿)

1968年、"シンデレラ・ボーイ"西城がロハスを破って凱旋して以来、70年代に入って日本選手の海外遠征が急増した。1970年度(1年間)に海外に出た日本人ボクサーは80人にも上る。地域別ではアメリカ本土10人、ハワイ20人、フィリピン11人、メキシコ4人、グァム4人、豪州3人、ジャカルタ4人、この他パナマ、ベネズエラ、ブラジル、フランスとなっている。

なかでも長期滞在組は大島伸太郎が6勝1敗、今井謙二5戦5勝、大木重良2勝1敗、乙丸幸一3勝1敗1分とかなりの成果を上げている。内山真太郎のように武者修行で世界ランキング入りを果たした選手もいる。後にはシゲ福山、バズソー山辺ら、海外武者修行でチャンスを掴み世界に挑む選手も現れた。

70年代の選手はなんとも逞しかったものです。翻って国際化の時代に、流れに逆行するかのように国外に出ようとしない選手達。第2の"シンデレラ・ボーイ"は出ないのか?西島洋介に期待してるんだけど、"シンデレラ・ボーイ"というのはちょっとなぁ?


■「20世紀を代表するボクサー」に原田氏 (2000年10月25日投稿)

21日から始まったWBC総会で、フライ、バンタムの2階級制覇を達成したファイティング原田氏が「20世紀を代表するボクサー」に選出されることが明らかになった。世界ヘビー級王座を25度防衛したジョー・ルイス、3階級同時制覇のヘンリー・アームストロング、モハメド・アリ氏を含め100人前後が選ばれ総会最終日に表彰式が行なわれる。(25日付サンケイスポーツより)

日本からは原田氏ただ1人の選出が確定したそうです。不世出の名ボクサー原田氏の評価は海外でも高く、その功績が評価されるのはファンとしても喜ばしいことです。日本のボクサーでは大場政夫、柴田国明、具志堅用高、渡辺二郎などもっと評価されてもいいのでは、と個人的に思っています。具志堅、渡辺はジュニア・クラスということで厳しいのでしょうが。(ジローさんは更に不祥事もあるしなぁ)柴田は負けっぷりの良さ(あっけなさ)がマイナス点でした。

今後、日本の選手が世界に認められるためには海外に出て、本場の強豪を倒さなければ無理でしょう。21世紀には原田氏に次ぐ"本物"のボクサーが誕生することを期待します。

付記: WBCの選出ですから、WBA王者の大場、具志堅は対象外でした。


■敗者インタビュー(まだ結果でていないんだけど・・・) (2000年10月31日投稿)

セルバンテスが古山の強打を警戒してアウト・ボクシングに徹するのを見て、まさかあれ程の名王者になるとは想像出来ませんでした。以下は善戦した古山の試合直後のインタビューです。

本多「古山君、どうでした?」
古山「巧さにやられました。ジャブが邪魔だった」
本多「かなりいいパンチが14Rもはいっていたんですけど」
古山「(効いていたのは)分かっていたんですけど、何か
   うまくクリンチにやられたみたいで。フォローパンチ
   がないですね。全然当たらない」」
本多「セルバンテスのジャブはどうでしたか?」
古山「あのジャブが一番しつこいですね。それほど強くは
   ないですけどね」
本多「何か強いパンチはありましたか?」
古山「全然ないですね。ジャブだけです」
本多「ジャブはよけられなかったのですか?」
古山「よけようと思えばよけられないこともなかったのですが。
   僕はちょっと経験不足でした」
本多「しかし、いいパンチは入りましたからね」
古山「自分で当たったのは分かっていたんですけどね。
   もう一回やりたいです」

パナマで行なわれたこの試合、パナマのフレーザーからタイトルを奪ったセルバンテスの防衛戦ということで古山への声援が圧倒的に多かったようです。また、黄色いグローブが鮮やかで印象に残りました。デュランVS高山も同じ黄色でパナマのブランドなのでしょうか。

付記: 1973年12月5日、パナマで行なわれたWBA世界ウェルター級タイトルマッチは挑戦者ライオン古山が再三強打をヒットする善戦だったが、セルバンテスの巧妙なアウトボクシングに判定負け。15R終了のゴングが鳴ると、本多アナがリングに上がって古山に敗者インタビューを始めたのには驚いた。まだ、判定の結果がコールされる前だというのに・・・。




■日本人同士の世界戦 (2000年9月20日)

昭和42年12月に行なわれた沼田義明−小林弘の世界Jライト級タイトルマッチは試合前の両陣営の舌戦もあり、空前の盛り上りを見せたという。試合も激戦となり、挑戦者小林が壮絶な12回KO勝ちを収めた。これが日本人同士で争われた初の世界戦である。

以降、大場−花形(S47年)、輪島−反町(S48年)と続くがいずれも接戦で、特に親友対決となったJミドル級は、輪島には珍しく気の抜けた凡戦だった。

以降10年以上、日本人対決はなかったが、84年に渡嘉敷が伊波をKOして以来、渡辺−大熊、勝間など明らかに力の差がある対戦が増え、王者が予想通りに完勝するケースが多くなった。90年代に入って急に日本人対決が増えたのは 薬師寺−辰吉の成功にあやかろうということなのか?

どうも私は「日本人対決」というのが、しっくりこない。何故「日本最強」を決める場が「世界タイトルマッチ」なのか。ノンタイトルで十分ではないかと思われるカードが多いように感じる。これまで10試合以上行なわれた中で「世界タイトルマッチ」と呼べるのは薬師寺−辰吉を含めて3、4試合くらいのものではないだろうか。

今回の畑山−坂本は世界を争うに相応しいカードだろう。しかし、本来なら畑山が世界に挑む前に実現して欲しかったカードだ。戸高−名護 もそうだったが、どちらを応援するか迷う対戦はファン心理を複雑にさせる。それも後のない世界戦で実現するというのはあまりにも残酷に感じてしまう。何か身内同士の戦いを見せられるようで悼たまれないのだ。

近年はただでさえ世界タイトルが東洋(OPBF)タイトルと何ら変わらないとさえ言われている。誰が、日本タイトル(レベル)の試合を好き好んで見たいというのだろう。両者が戦う必然性がない限り、日本人同士の世界戦はできる限り避けて欲しいものである。




■映画「ザ・ハリケーン」 (2000年9月1日)

人種差別、マリファナ、ヒッピーそして泥沼と化したベトナム戦争・・・米国を取り巻く様々な社会問題に揺れた70年代。1人のボクサーが『獄中』というもう1つのリングで人生の第16Rを戦っていた。
1975年、当時高校生だった私はボクシング専門誌で初めてルビン”ハリケーン”カーターを知った。獄中から無罪を訴えるカーターの記事は多感な高校生の私に強い衝撃を与えたものだ。ボブ・ディラン、モハメド・アリらをはじめとする著名人が集まり、カーター支援のチャリティー・コンサートが開催されたのも、ちょうどこの頃だ。翌76年、目撃者が証言を翻すというニューヨークタイムズのスクープなどもあって再審の決定が下される。カーターは保釈金を納め釈放されるが、再審で再度有罪となり再び終身刑が言い渡される。
時は流れて85年11月。ついに連邦判事H・リー・サロキンは再審の有罪判決を覆し、3度目の裁判を請求しないよう州検察に勧告した。そして88年2月、ニュージャージー州の4年間の控訴後に起訴却下の命令が下ったのだ。22年間に及ぶカーターの16Rの長い戦いはこうして幕を閉じた。

映画「ザ・ハリケーン」は、レズラ少年とカナダ人支援者との心の交流を中心に描かれた重厚な人間ドラマだ。挫折、人間不信に陥ったカーターが、次第に人間性を取り戻していく過程が見事に描かれている。ボクサーの体型を作る為、実に60ポンド(約27キロ)もの減量に成功したというデンゼル・ワシントンの意気込みにも感嘆させられる。写真を一目見た時、「あ、これは紛れもなくカーターだ!」と思った。彼の抜群の演技力は見事なカーター像を作り出していた。
人種差別を背景に無実の罪で投獄されたひとりの男が、レズラ少年との交流を通してカナダ人グループの暖かい支援を受ける。私はカーターについて専門誌等で、その都度情報を追っていたがカナダ人グループの存在は全く知らなかった。
76年、再審で再度有罪を言い渡された時、カーターは絶望の淵にいた。支援者達も去っていったという。レズラ少年とカナダ人グループとの運命的な出会い。彼らの勇気と愛が、カーターを立ち直らせ、奇跡を呼んだのだ。

ラストがとりわけ感動的だ。レズラ少年、カナダ人グループ、弁護団・・・多くの人に支えられてカーターは"人生の第16R"に勝利を収めた。幾度もの挫折を乗り越えて成長していく彼の姿は、我々に勇気と希望を与えてくれるものだ。カーターの第二の人生に幸あれと祈らずにはいられない。



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■西島洋介山とパワフル本望問題 ■替え玉事件 ■ルビン・“ハリケーン”・カーター 
■囚人ボクサー、スコット
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